神社・古墳めぐり / 尾張の式内社めぐり / 熱田神宮

熱田神宮
 

熱田神宮は、名古屋人である私にとっては馴染みのある神社で、初詣や祭り、特殊神事の見物などで何度も訪れている。

熱田神宮のHPは、https://www.atsutajingu.or.jp/jingu/


写真は、2009年12月20日に熱田神宮の本宮だけでなく、境内の摂社・末社を見て回った時のもの。

以下、熱田神宮の説明は、主に、式内社研究会編集「式内社調査報告 第8巻 東海道3」を参考にした。

【 社名 】

社名「アツタ」は地名によって名付けられたものと思われ、『和名類聚抄』の愛知郡条に「熱田」(刊本は「厚田」)と郷名が記されている。

現在の「熱田神宮」の社名は、明治に至って神宮号が宣下されて決定されたものであって、それ以前には「熱田社」「熱田神社」「熱田大明神」など色々と呼ばれた。

「アツタ」の意味については、本居宣長が「年魚市田」の訳と解し、また近年地名学者の鏡味完三氏が傾斜地の意であると説明している。

『熱田大神宮縁起』によれば、當宮の社地を定めた時、一本の楓の大樹が自然に燃えて水田の中に倒れ、その炎がいつまでも消えず、一帯の水田が熱くなったという地名伝承を残している。

【 所在 】

名古屋市熱田区神宮1丁目1番1号に鎮座。

この熱田の地は伊勢湾の最も奥地に位置し、名古屋城から南に伸びる熱田台地の海に突出した先端部にあたり、古くはこの半島状台地の両側に海が入って湾状をなしていたと考えられる。

中世には、当地を蓬莱島と称している。この呼称は、当時盛んであった蓬莱信仰によるものであるが、同時に、この地が、半島状に海に突出している風光明媚な地勢に起因すると考えられる。

当宮の周辺には数多くの古代の遺跡が存しているが、日本武尊の陵墓と伝える白鳥古墳(当宮の西方約300m、全長68m)、宮簀媛命の墓と伝える断夫山(だんぷやま)古墳(当宮の北方約300m、全長150m)があり、とりわけ断夫山古墳の規模は東海地方第一の偉容を誇る前方後円墳で、これらの古墳が造られた古墳時代中期には、当地方で最も有力な豪族である尾張氏が威勢を張っていたいたものと思われる。

この尾張氏は、全国的に広く分布しており、尾張を始め、大和・山城・摂津・備前などに固まって居住していたと推定されているが、とりわけ海との結びつきのあるところに多く住んでいたように見受けられる。この熱田周辺に居住した尾張氏も、伊勢湾の最も奥地にあたるその位置、並びに海部氏との結びつきを示す伝承からも海での活躍に看過しがたいものがある。

【 由緒 】

熱田神宮は、三種の神器の一つである草薙神剣を奉斎する由緒深い神社である。この草薙神剣は、もと素戔嗚尊が八岐大蛇から得た神剣(天叢雲剣)であって、のちに天照大神に献じられ、さらに大神が天孫降臨に際して天璽之神宝として皇孫瓊瓊杵尊に授けられたものである。

第12代景行天皇の御代、皇子日本武尊が東夷征伐に赴いた時、姨の倭姫命からこの剣を授けられた。後に尊は駿河に進まれた時、この神剣によって草を薙ぎ、賊の火を防いで難を逃れたことから、以来この剣を「草薙剣」と称するようになった。

東征から戻られた尊は、先に婚約を果たした尾張の宮簀媛の許に至り、神剣を預けたまま伊吹山の神を討伐に出かけられたが、その結果、病にかかり、遂に伊勢の能褒野で亡くなられた。そこで熱田の地に社を建てて、草薙剣を奉安したのが熱田神宮の創祀とされる。

當宮は、古くから当地に居住した尾張氏族によって、奉斎された神社であったと考えられる。この奉斎した氏族が尾張氏であったことは、記紀及び「熱田大神宮縁起」等に尾張国造の遠祖にあたる宮簀姫命が、この草薙剣を奉安したという日本武尊の東征伝承や、建稲種命が熱田明神をもって尾張氏神となしたことによっても窺われるところである。

當宮の御鎮座が日本武尊の東征伝承の中において語られていることの背景には、大和朝廷の勢力が東国に伸びていく時、陸海の重要拠点を占める当国の尾張氏族が、これに大いに協力したことが考えられる。

降って、天智天皇即位7年(668)に新羅の僧道行が熱田の神剣を盗んで難波から出帆したところ荒波に押し返されてしまった。その結果、神剣は皇居に留められたが、朱鳥元年(686)、天武天皇の御不例(病気)に際し、卜占によって神剣を宮中に置いた祟りであることがわかり、旨叡(天子の言葉・考え)によって神剣は再び熱田へ奉還せしめられるに至った。

もともとは尾張氏を中心として奉斎されてきた當宮であったが、交通の発達、信仰の拡大に伴い、中世には広く各層から崇敬されるようになり、神社の組織も更に整備されてきたと考えられ、鎌倉時代初期までに尾張国の三宮と称されている。

鎌倉時代には将軍源頼朝が大宮司季範の娘が母であったという浅からざる縁故があって、特に崇敬を寄せられ、建久5年(1194)に神馬・宝剣を奉納している。

明治に至り、當宮が三種の神器を奉斎する神社として、官制の上でも特別な配慮がなされ、社名は「熱田神宮」と改称され、明治4年に官幣大社29社のうちに列せられている。

また明治26年には従来の尾張造りの社殿を改め、伊勢神宮とほぼ同様の神明造りに改造したのもこの考えによるものである。


下の尾張造りの熱田神宮の図は、江戸時代末期から明治初期にかけて刊行された尾張国の地誌、「尾張名所図会」より。


「尾張造り」の建物は、海上門を入って正面に透垣を隔てて勅使殿があり、その奥に、順に拝殿、祭文殿、渡殿が前後独立して中心線上に並び、渡殿の奥に向かって右に土用殿、左に正殿が並んで建ち、祭文殿の左右から起こった廻廊が四周していた。

土用殿は、神剣を奉安する御殿として正殿と並んで建てられ、戦災で焼失したが、昭和46年古式のままに神楽殿の北側に復元された。様式は宝庫造、俗に井楼組(せいろうぐみ)と呼ばれる造りで、屋根切妻桧皮葺の箱棟。
 
 
【 祭神 】

祭神の「熱田大神」とは、神剣草薙剣を御霊代として憑らせられる「天照大神」のことである。
相殿として天照大神、素戔嗚尊、日本武尊、宮簀媛(みやすひめ)命、建稲種(たけいなだね)命の御柱を祀る。

この相殿の神は、いづれも神剣と縁のある神々であるが、特に宮簀媛命と建稲種命の二神は尾張国造の遠祖にあてられる。

これら五神は、古くから相殿の神とされており、遅くとも鎌倉時代以前に遡ると考えられる。
ただし五神に含まれる祭神に、伊弉諾尊や櫛稲田姫命に宛てたものもあり、時代的な変遷があったと思われる。

祭祀

現在当宮では年間に約60度の恒例祭典が行われるほか、約10度の特殊神事がある。

その中で最も盛大な祭典が「熱田祭」「尚武祭」の名をもって呼ばれる例祭である。

この例祭は、皇室より勅使が差し遣わされ、御幣物を奉奠(ほうてん)され、御祭文が奏上される。明治5年
6月21日の勅使奉幣を由縁として始められたもので、明治25年に6月5日に変更、現在に至っている。

特殊神事の主なものは、

正月7日 「世様(よだめし)神事

正月12日 「封水世様神事」 この日に斎甕に清水を入れ、翌年の世様神事で水量を計ってその年の豊凶を占う

正月11日 踏歌(とうか)神事」 別名「アラレバシリの神事」、俗に「オベロベロ祭」とも称される。この神事は、陪従の歌に合わせて4人の舞人が卯杖舞・扇舞を舞い、巨大な冠と面をつけた高巾子(こうこじ)役は詩頭の読む詔文に合わせて、振鼓を左又は右にかざして数度振り、その音を聞いて、吉凶を占う信仰がある。年頭のほがいとして、春きざす大地を踏み、土地の精霊を鎮め、又その年の稲の豊穣、養蚕の豊収とを予祝したものと思われる。もとは平安時代の宮中の年中行事の一つであった「踏歌節会」の行事が伝えられたとみられるが、現在、古儀を伝える神事として注目される。

正月15日 歩射神事」 一名「歩射会」、俗に「御的(おまとう)」とも称する。お的を射る神事で、古式によって射手(六名)による射礼が行われ、終わって古来魔除けの信仰がある大的の千木を争って奪い合う。

5月1日 舞楽神事」 平安時代に都より伝わったものと思われ、現存する舞楽面12面(重要文化財)の内には治承年間(1177~1181年)に修復した裏書が存し、この神事の古さを物語る。

5月4日 「酔笑人神事」 「オホホ祭・於賀斯(おかし)祭」とも称する。5日の神輿渡御神事の前夜に行われるもので、祭員が袖の下に面を隠し持ち、それを中啓(ちゅうけい;扇の一種)で叩いてオホホと笑う。古くはこの神事に先立ち頭人による奉幣が行われた。

5月5日 「神輿渡御神事」 社伝によれば、天武天皇の神剣還座の時、「都を離れ熱田に幸すれど、永く皇居を鎮め守らむ」との神託のあった由縁により、鎮皇門(西門)に神幸せられる際に門の楼上に神輿をかつぎ上げ、はるかに皇居をみそはなすという皇城鎮護の祭を斎行したが、焼失後は西門鳥居下で祭を執行している。古くは「神約祭」とも称した。江戸時代までは頭人が参加する祭として行われ、頭人は還御の後、熱田七社詣を行い、翌日、大高の氷上姉子神社へも船で渡った。

5月8日 「豊年祭」 俗に「お穀祭」「花の撓(とう)」「おためし」とも称する。早朝に祭典を行い、のち西楽所に飾った田所・畑所の飾り物を展覧し、この飾りつけによって、その年の豊凶を占う。この神事は、後に仏教行事の卯月八日の灌仏会と習合している。

その他に、5月13日の「御衣祭」、6月18日の「御田植祭」、8月8日の「神輿渡御神事」などがある。

なお、江戸時代以前には2月巳午日の「祈年祭」、11月寅卯日の「新嘗祭」とが二季祭と称され、当宮の最も重い祭儀として厳重に斎行され、また6月5日の南新宮(天王社)の夏祭り(大山祭)には熱田八ヵ村より山車が出され、大変な賑わいを呈した。

境内地

広さは約19,000平方メートルで、境外を併せると約283,000平方メートルに及ぶ。

江戸時代には本宮境内と別宮八剣宮とは神宮寺と大宮司屋敷を間に挟んで隔たっていたが、大正10年から昭和2年にかけて神域拡張整理が行われ、ほぼ現在の神苑をなすに至った。

当宮の神苑は「熱田の森」と称せられ、尾張地方における数少ない常緑広葉樹林の一つとされ、楠、タブノキの老木が多い。

このうち、楠には巨木が多く、なかでも、古来、弘法大師のお手植えと伝えられる「七本楠」は樹齢1000年前後といわれている。


境内外の別宮・摂社・末社

境内及び境外には、別宮1社、摂社12社、末社31社が祀られており、そのうち、別宮の「八剣神社」、境内摂社の「上知我麻神社」「下知我麻神社」「御田神社」「日割御子神社」「孫若御子神社」、境外摂社の「高座結御子神社」「火上姉子神社」「青衾神社」の9社は式内の遺存の社とされている(式内社については、別にそれぞれの神社について項目を設ける)。
それぞれの神社の祭神

別宮  八剣神社  祭神は本宮と同じ
境内摂社 一之御前(いちのみさき)神社 天照大神の荒魂
  日割御子(ひさきみこ)神社 天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)
  孫若御子(ひこわかみこ)神社 天火明命(あまのほあかりのみこと)
  南新宮社(みなみしんぐうしゃ) 素戔嗚尊
  御田(みた)神社 大年神(おおとしかみ)
  下知我麻(しもちかま)神社 真敷刀俾命(ましきとべのみこと)
  上知我麻(かみちかま)神社 乎止與命(おとよのみこと)
  龍神社 吉備武彦命・大伴武日命
境外摂社 高座結御子(たかくらむすびみこ)神社 高倉下命(たかくらじのみこと)
  火上姉子(ひかみあねご)神社 宮簀媛命
  青衾(あおふすま)神社 天道日女命(あめのみちひめのみこと)
  松姤社(まつごしゃ) 宮簀媛命
 境内末社 大幸田(おおさちだ)神社 宇迦之御御魂神(うかのみたまのかみ)
  清水社 罔象女神(にずはのめかみ)
  東八百萬(ひがしやおろず)神社 東国坐八珀萬神(ひがしのくににますやおろずのかみ)
  西八百萬(にしやおろず)神社 西国坐八珀萬神(にしのくににますやおろずのかみ)
  大国主社 大国主命
  事代主社 事代主命
  内天神社 少彦名命
  乙子(おとご)社 弟彦連(おとひこのむらじ)
  姉子(あねご)神社 宮簀媛命
  今彦神社 建稲種命 
  水向(みか)神社 弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと)
  素戔嗚神社 素戔嗚尊
  日長神社 日長命・日本武尊・倉稲魂命(うかのみたまのみこと)
  楠之御前(くすのみまえ)社 伊弉諾尊・伊弉冉尊
  菅原社 菅原道真公
  徹社(とおすのやしろ) 天照大神の和魂
  八子社(やこのやしろ) 天忍穂耳尊(あめのおしほみみの尊、ほか7柱
  曽志茂利(そしもり)社 居茂利大神(いもりのおおかみ)
  影向間(ようごうのま)社 熱田大神
境外末社 南楠(みなみくす)社 熱田大神、ほか5柱
  鈴之御前(れいのみまえ)社 天鈿女命
  浮島社 天穂日(あめのほひ)命
  朝苧(あさお)社 火上老婆霊(ひがみうばのみたま)
  琴瀬山(ことせやま)神社 熱田大神・大山津見神・久久能智(くくのち)神
 
参拝記

2009年12月20日、普段は、名鉄の神宮前駅で降りて、東の鳥居をくぐって境内へはいるが、この日は、地下鉄で一つ先の駅の「伝馬町駅」でおりて、南の正門から境内に入った。

この南の鳥居をくぐるとすぐ左(西側)に摂社の尾張国造の祖建稲種命・宮簀媛命の父に当たる乎止神與命を祀る「上知我麻神社」が東面して建ち、その前面の左右に、末社の「大国主社」と「事代主社」が建つ。

上知我麻神社の前庭の北側に、別宮の「八剣宮」が南面して建つ。

参道を挟んで、東側に、天忍穂耳尊を祀る「日割御子神社」が南面して建つ。
天忍穂耳尊は、天照大神の御子で、尾張氏の祖神である天火明命の父にあたる。

その北側に造りはそっくりな「孫若御子神社」も南面して建つ。
天火明命を祀り、天火明命は、天照大神の孫神にあたり、天孫降臨の瓊瓊杵尊とは兄弟神になる。

これら2社と本宮に祀られる天照大神と合わせて、尾張氏が天照大神につながる祖神3代が祀られていることになり、尾張氏は神代までさかのぼると、天皇家の親族で、熱田神宮が伊勢神宮と並ぶ神宮である由縁はここにあるんだな。


その少し北へ行くと、摂社の「南新宮社」とその脇に末社の「八子社」が西面して建つち、少し離れてその前庭の北側に南面して末社の「曽志茂利社」が建つ。

「南新宮社」は、素戔嗚尊を祀り、6月5日に「南新宮社祭」があり、当神宮唯一の丹塗りの社殿。

「八子社」は、天照大神と素戔嗚尊の誓約(うけい)から生まれた、多紀理毘売命・市寸島毘売命・多岐都毘売命の三柱の女神と、正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命、天之菩卑能命、天津日子根命、活津日子根命、熊野久須毘命の5柱の男神を五男三女神として祀っている。

「曽志茂利社」は、居茂利大神(素戔鳴尊)を祀る。

曾尸茂梨(そしもり)は新羅の地名だそうで、金達寿著の「日本の中の朝鮮文化3 近江・大和」によれば、「曾尸茂梨の曾はもとより、熊曾の曾や筑紫の紫も新羅の原号であったソ=斯羅(しら)(羅は那と同じで国土という意)からきたもので、これはさらに転訛して阿蘇、伊蘇、伊勢、宇佐、須佐、周防、諏訪などとなっている。須佐之男命(素戔鳴尊)の須佐なども、これからきていることももちろんである。」とある。


南新宮社の先に「清雪門(せいせつもん)」がある。


 


この門について、神宮のHPでは、下記のような説明文がある。

「末社楠御前社の北東に位置し、もと本宮の北門ともいわれております。俗に不開門(あかずのもん)とも言われております。
天智天皇7年(668)新羅の僧が神剣を盗み出しこの 門を通ったといわれ、以来不吉の門として忌まれたとも、神剣還座の際門を閉ざして再び皇居へ遷ることのないようにしたとも伝えられております。」

この新羅の僧道行が草薙剣を盗んで新羅へ逃亡しようとしたが、途中嵐に遭い日本へ吹き戻された、という事件については、井沢元彦著「逆説の日本史2」にけっこう詳しく書かれていて、それを要約すると下記のようになる。

668年という年は、天智天皇が、母の斉明天皇が亡くなってから皇太子のまま政務をとっていたが、この年に正式に天皇に即位した年で、その年に、新羅のスパイ道行が皇位の象徴の草薙剣を盗み出した。
これは明らかに天智の正式な即位を妨害するためである。
要するに、道行は天智の天皇としての権威を失墜させようとしたが、それは、明らかに天智が反新羅派であったからだ。

逆説の日本史では、大和朝廷の新羅派と百済派の対立として古代史が読み解かれていて、天智天皇から天武天皇への壬申の乱では尾張氏が重要な位置を占めていることもあって、このあたりの歴史も興味が尽きない。

いったん盗まれて取り戻された草薙剣は宮廷内に置かれていたが、686年、天武天皇が病気を占ったところ、草薙剣のたたりとわかったので、いそぎ熱田社へ送った、ということで、草薙剣は熱田の地に鎮座しなくてはならないものらしい。



清雪門を見てから、南の正門から続く参道に戻り、本宮へ向かうとすぐ、「楠御前社」が南面して建つ。

 


熱田神宮のHPによると

「伊弉諾尊・伊弉册尊の二柱をお祀りしております。
俗に「子安の神」又は「お楠さま」と呼ばれ、種々の病気を治し、殊に安産の神としての信仰が厚く、小鳥居(本宮授与所にてお頒ちしております)に干支や氏名を書いて奉献すると願い事が成就するといわれております。
尚、このお社には社殿がなく、垣をめぐらした中に社名の示すとおり、楠の神木が祀られております。」




ここは正面からは解らなかったが、横へ回ってみると社殿が無いことに気がついた。

この形式が神社の原初的なもののようで、鳥越憲三郎著「古代中国と倭族」に中国雲南省の佤(わ)族などを例に、こうした形式から神社への過程が述べられているが、その一部を下記に抜粋した。


「雲南省奥地に住む佤(わ)族の例で示せば、それぞれの氏族の本宗となる家が鶏を持ち寄り、呪術者によって鶏の脚骨による占いで世襲の村長が選定される。ひとたび村長が決まると、その後に他の氏族から経済的に優位なものが現れようとも村長の地位は不動である。ただ疫病が流行して人や家畜が死ぬ被害が大きくなると、神から見離された者として村長は交替させられる。
その世襲の村長は村の祭祀権と行政権とを掌握する。それは神の代行者としてである。そして村長と故老たちによって住むべき適地が見つかると、まずその近くで神の鎮まる聖林を探し、その中で神が天から降臨するにふさわしい一本の聖木が選ばれる。そして吉日に村長と故老たちが聖木の前に集まり、村長がこの地に村落をつくることの許しと、幾久しく村人が守護されることを祈願する。
この聖林は洋の東西を問わず、あらゆる民族に共通してみられたものであるが、わが国では周知のように神奈備(かんなび)山・三室(みむろ)山と呼ばれた円錐状の整った山、または樹林が選ばれ、その中の巨樹や巨岩を神の鎮まるところとした。そして後に社殿が設けられると、それが神社と称せられるようになる。」

この原初的な社の祭神が、日本の創造神の伊弉諾尊と伊弉册尊であるというのはピッタリだ。


参道を進むと次に天照大神の和魂を祀る「徹社」が西面して建つ。


神様には荒魂(あらみたま)と和魂(にぎみたま)の両面があるとされ、和魂は慈しみ加護してくださる神とされているそうだ。


徹社をすぎて参道を進むと、名古屋では最古といわれる石橋で、板石が25枚並んでいるところから、「二十五丁橋」といわれる。

そこを過ぎると「佐久間燈籠」という高さが8mもある巨大な石燈籠がある。



この先に、信長塀がある。

織田信長が今川義元との戦いに出るときに戦勝を祈願して、みごと桶狭間で勝利したのを感謝して、この塀を奉納したんだそうだ。

そして、この塀の前に、参道をはさんだ両側に、高床式の倉庫のような建物がある。




そして参道の右側の信長塀の前に、宇迦之御御魂神を祀る「大幸田神社」が南面して建つ。

ここでは、正月7日に、「世様神事」が行われる。



大幸田神社の南側に小道があり、西面して内天神社と六末社が横一列に並んでいる。



内天神社は、ここも社殿がなく、垣に囲まれた中に楠があり、「少彦名命」が祀られている。

少彦名命は、大国主を助けて国造りをした神様で、高皇産霊神(たかみむすびのかみ)の子とされる。

天照大神の御子神・天忍穂耳命(アメノオシホミミノミコト)が高皇産霊神(タカミムスビノカミ)の娘と結婚して生まれたのが天孫瓊瓊杵尊であるので、高皇産霊神は瓊瓊杵尊の外祖父に相当する。


内天神社に並んで、六末社が並んで建つ。



乙子社の祭神、「弟彦連」は、尾張氏15代目にあたる。建稲種は13代目。

姉子神社の祭神「宮簀媛命」は、建稲種の妹で日本武尊の妃。

今彦神社の祭神「建稲種命」は、日本武尊の東征に従う。

水向神社の祭神「弟橘媛命」は、日本武尊の妃で走水で海の神を鎮めるために入水死する。

素盞嗚神社の祭神は「素盞嗚尊

日長神社の祭神「日長命は、知多半島を開拓された神で尾張氏の一族か?




また参道へ戻り、信長塀を過ぎると冒頭のの写真の「本宮」がある。

そして本宮の東側に並んで、「神楽殿」が建つ。


神楽殿の前庭の信長塀の近くに、「西楽所」がある。

ここでは、5月8日の「豊年祭」で田所・畑所の飾り物を展覧し、この飾りつけによって、その年の豊凶を占う。


神楽殿の東側に奥に通じる道があり、神楽殿の北側に「土用殿」があり、さらに奥へ進むと、奥へ向かって順に龍神社・御田神社・清水社がある。

まずは、「龍神社(りゅうじんじゃ)」が西面して建つ。


「吉備武彦命(きびたけひこのみこと)、大伴武日命(おおともたけひのみこと)をお祀りしております。『日本書紀』には、景行天皇より日本武尊に遣わされた東征に従う神々としてその名が記されております。」

この二人は、東征に従ったわけだから、建稲種命の同僚ということになる。


その奥に式内社とされる「御田神社(みたじんじゃ)」が西面して建つ。


「五穀豊穰の守護神である「大年神(おおとしのかみ)」をお祀りしております。大年神の「年」の字には、穀物、特に穂が稔るという意味があり、農耕中心の日本人においてどれほど大事な神様か、容易に推察が出来る事でしょう。
この社の祈年(きねん)・新嘗(にいなめ)の両祭に奉る神饌(しんせん:神様へのお供えもの)はまず烏に食べさせる信仰が残っており、祭員がホーホーと烏を呼びながら、御供(ごく)を土用殿の屋根の上に投げ上げます(烏喰の儀)。昔は烏が飛んできてそれを食べなければ、祭典が行われなかったといわれております。
6月18日には御田植祭が行われます。」


そして最も奥に、「清水社」が南面して建つ。


「本殿の東、御田神社の北に鎮座。御祭神は水をつかさどる神様である罔象女神(みずはのめのかみ)をお祀りしております。
社殿の奥に水が湧いていることから、俗に「お清水(しみず)さま」と呼ばれ、その水で眼を洗えば眼がよくなり、肌を洗えば肌がきれいになるという信仰があります。」


谷川健一編「日本の神々10 東海」によると、熱田神宮には、中国の伝説で、東海にあって仙人が住むといわれる霊山である「蓬莱」とする伝承があり、また熱田大神が楊貴妃となって大陸へ渡り、唐の玄宗皇帝の日本侵略をやめさせ、楊貴妃は死なずに舟で逃れ、知多半島の内海に入って熱田に帰った、という「楊貴妃伝説」もあり、その墓が清水社の後ろにあるともいわれたそうだ。


これでまた参道へ戻って、西門に向かう。

11時半ぐらいになり、腹も減ったので、熱田神宮へ来て昼時になると定番の境内の西門近くの「宮きしめん」で昼食にした。


きしめんは1杯600円。
量は少なめだが、平ぺったいきしめんのぷっくりした口触りは、宮きしめんの独特のもので、私は好きだ。

腹ごしらえして、まずは、西門近くの「西の鳥居のすぐ脇に「菅原社」に向かう。。




神宮のHPによれば、

「御祭神に学問の神様として崇められる菅原道真公をお祀り致します。下知我麻神社(しもちかまじんじゃ)の石を戴いて帰り、願いがかなうと倍の大きさの石を菅原社へ奉納するという珍しい風習も伝えられております。
西門を入ってすぐの場所に鎮座し合格祈願の絵馬も多く奉納されております。文化殿北側にある「内天神社」に対し「外天神」とも呼ばれる神社です。」


内天神に少彦名命を祭っていて、天神様とどういう関係があるんだろうと思ったが、金達寿著の「日本の中の朝鮮文化 1」をパラパラとみていて、調布の「布多天神社」の祭神も、少彦名命と菅原道真だそうで、金氏は、私とは逆に、なぜ菅原道真が祀られているのか不思議であるように記している。

考えてみれば、熱田神宮でも、日本武尊と尾張氏ゆかりの神社に随分時代が下る菅原道真が祀られているのは唐突な気がする。

西門をでて北に歩くと、神宮の森の北西角近くに「下知我麻神社」が西面して建つ。。



「真敷刀俾命をお祀りしております。この御祭神は、上知我麻神社の御祭神・乎止與命のお妃で、日本武尊のお妃・宮簀媛命の母神様です。
古くから旅行安全の神として信仰されております。」

鳥居もある独立した神社になっているが、社は上知我麻神社に比べると非常に小さい。


この日は熱田神宮境内の参拝を終え、次は日本武尊の御陵ともいわれている白鳥古墳へ向かった。



境内社であと1社参拝できていなかった「一之御前神社」は、2013年3月17日に「祈年祭」を見に行ったときに、神宮の北側をめぐる「こころの小径」という遊歩道が開放されていて、本殿の北西後方に位置する天照大神の荒魂を祀る「一之御前神社」に参拝することができたが、写真はみつからないので、たしか撮影禁止になっていたんだと思う。