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熱田神宮 踏歌神事

2012年1月11日、熱田神宮で踏歌神事(とうかしんじ)を見に行った。

写真は、午後、別宮(八剣宮)で行われたときのもの。

熱田神宮のHPによれば、

「春きざす大地を踏んで土地の精霊を鎮め、除厄と招福とを祈る神事で、奈良時代より朝廷で行われていた踏歌節会の余風を伝えるものです。

次第は、陪従(べいじゅう)が踏歌を歌い、舞人が卯杖舞(うづえのまい)・扇舞(おうぎのまい)を舞います。次いで詩頭(じとう)の詔文(しょうもん)にあわせ、高巾子役(こうこじやく)が振鼓を振ります。

詔文の文言や振鼓の音色から別名「あらればしり」「オベロベロ祭り」とも呼ばれています。また、振鼓の音からその年の豊凶を拝観者が夫々に占います。なお、午後1時からは別宮並びに大幸田神社でも神事が行われます。」

 

10時から神事が始まるとのことで、9時すぎに神宮へついた。

 

平日ということでか、見学者はそんなに多くなかったが、9時半には場所取りをして儀式が始まるのを待った。

 

「新修名古屋市史9 民俗」によると、私は見ることができなかったが、一行が本宮前に入場するまで次のような儀式がとりおこなわれている。

「午前9時40分頃、最初に斎館前へ出た陪従は神楽殿に向かって横一列に並び、詩頭、舞人が出るのを待つ。全員が整列すると出発する。まず本宮南にある祓所で修祓(しゅうばつ)の後、影向間社(ようごのましゃ)へ向かう。詩頭、舞人などの八人はそのまま参道を真っ直ぐ進み、手水舎を過ぎると右折し、国道一九号線を突っ切り、影向間社に至ると他の祭員が来るまで待機する(影向間社は平成16年3月に境内の車祓い出口前北に移設された)。その間に雁使が桜の挿頭花(かざし)を冠へ挿す。

陪従と笛役の六人は、祓所から出ると信長塀のところで列から離れ、旧参道のところで北面し東西一列に並び、笛役の吹く笛にあわせ陪従が笏木を打ちながら催馬楽の「竹川(半首(はんず))を謡う。そして影向間社に向かって進み、途中の鎮皇門跡にあたる西鳥居をくぐると、鳥居に向かって東面して南北一列に並んでから「竹川(半首)」を謡い、国道を横切るのである。

影向間社の決められた席に着くと、後から到着した祭員の冠へ、雁使が山吹の挿頭花を挿す。挿頭花は、面筥の中へ事前に作って入れてある。最後に雁使も控えの者から挿頭花をつけてもらう。祭員の席は南面する影向問社の本殿に対し東西二列に向きあっている。すなわち、東側は舞人、西側には北から詩頭、陪従、笛役、雁使の順である。祭員の冠へ挿頭花を挿すと、陪従が東側の舞人の席に行き、舞人は後ろへ回り舞の身支度をする。詩頭と高巾子、それから雁使は西の席に座ったまま。陪従等によって「竹川(半首)」が始まると、それにあわせて舞人は卯杖を持って神前へ進み、順に「卯杖舞」を舞うのである。これを試舞という。

影向間社の行事を終えると、再び国道一九号線を通行する車を警察が止めている間に、祭員が横断して本宮へ向かう。祓所の北まで来ると、祭員は参道西側へ縦に並び、宮司が前を参進するのを待つ。ここでも「竹川(半首)」を謡う。宮司はそのまま本宮内へ進み、他の祭員は大前(拝殿前)の所定位置に座す。」

 

このあとから、本宮前の儀式となり、私も見ることができた。

これら式次第も「新修名古屋市史」によると、

「宮司は祝詞を奏上し、拝殿前西側の石段上の席に着く。ついで陪従が東側の舞人の席に行って立ち「万春楽(ばんすんらく)」を謡う。それにあわせて舞人は、陪従の後方を卯杖を持って順に右回りで、正面中央の石段下まで進み一礼する。これはただ一礼して三回巡るだけである。

つぎに「竹川」を陪従が謡い出すと、舞入は卯杖を持って正面へ順に進み、右・左・右と足を開いて「卯杖舞」を一回ずつ舞う。そして陪従が「浅花田(あさはなだ)」を謡い出すと、舞入は右肩袖を脱いで右手に中啓(ちゅうけい)を持ち、順に正面へ進み出て「扇舞」を舞う。緋の片袖が鮮やかである。

舞人の「扇舞」が終わると、詩頭と高巾子の出番になる。雁使が面筥から仮面と冠を取り出し高巾子役に着ける。詩頭も雁使から頒文を受け取ると正面へ進み、その約二間あまり後方に高巾子が立つ。詩頭は、13段(現在は7段)からなる巻物仕立ての頒文を両手で持ち、本文を段ごとに読み上げていく。段の区切りに「カナワサ右」、または「カナワサ左」と言い、その方向の肩上へ両手で持った巻物を、詩頭が担ぎ上げるようにすると笛役が笛を吹く。構えていた高巾子は指示のあった方を向き、振り鼓を上げて振るのである。その振り鼓の音を聞いて、かつては参拝者各自が作物の豊凶を占ったと伝えられている。「オベロベロ祭り」の名は、振り鼓の音に由来するという。

踏歌祭頒文が終わり、高巾子の仮面が外されると、陪従が庭の南側中央で東西横一列に並び「何そもそも」を謡う。舞人は最初と同じように卯杖を持ち、正面に進み出て一礼する。そこを三回巡ると大前での踏歌神事は終了するのである。宮司が退出し、他の祭員もそれに従って斎館へ戻る。」

 

私はこの後、午後の別宮と大幸田神社での儀式もみていこうと、境内の「宮きしめん」へ向ったが、すでに満席で大勢並んでいたので、隣の「きよめ茶屋」でご飯ものはカレーライスしかなかったのでそのカレーと甘酒で昼食にした。


午後1時から、別宮(八剣社)、その後引き続き、大幸田神社でも踏歌神事が行われた。

別宮、大幸田神社と社殿の規模が小さくなり、儀式も間近で見ることができる。

「新修名古屋市史9 民俗」を参考に、詳しく見てみると、

踏歌に直接携わる祭員は、詩頭(じとう)・陪従(べいじゅう)(五人)・笛役・高巾子(こうこうじ)・舞人(四人)・雁使(がんし)のあわせて13人である。祭員等の装束は次のとりである。舞人は小忌衣(おみごろも)に巻櫻冠(けんえいのかんむり)を着け太刀をはく。詩頭、陪従、笛役、高巾子は斎服(いみぶく)、雁使は麻布衣(あさほい)。

役柄は次のようになっている、祝詞を奏上するのは祭主で、本宮が宮司、八剣宮と大幸田神社では権宮司二人のうちどちらかが勤める,。陪従は笏(しゃく)を叩いて催馬楽(さいばらく)を謡い、舞人は卯杖(うづえ)の舞と扇の舞を舞う。詩頭は踏歌祭頒文(しょうもん)を読み、高巾子は冠と仮面を着用し、振り鼓を持って振る。笛役は催馬楽と頒文の時に笛を吹く。雁使は行事中のさまざまな雑用と祭員の介添え役である。

儀式は、4つのパートに区分できる。

まず、詩頭・陪従・笛役・高巾子・舞人・雁使が社殿の手前に並び、笛役の吹く笛にあわせ陪従が笏木を打ちながら催馬楽の「竹川(半首(はんず))を謡い、宮司(午後の部は権宮司)の入場を迎える。

「竹川」の歌詞は、
「たけかはの はしのはしのをつめなる はなそのにはなそのに われをわれをいれよ やめさしそめせん まいやめさしそめけん」

そして宮司による祝詞奏上がある。

本宮、別宮では本殿が奥深いところにあり、我々は見ることができないが、大幸田神社は小さな社のみなので間近で見ることができたが、祝詞奏上の声は極めて小さくて聞こえなかった。

祝詞奏上の後、陪従が東側の舞人の席に行って立ち「万春楽(ばんすんらく)」を謡う。それにあわせて舞人は、陪従の後方を卯杖を持って順に右回りで、正面中央まで進み一礼する。これはただ一礼して三回巡るだけである。

「万春楽」の歌詞は、
「ばんすんらく ばんすんらく ばんすんらく(三ぺん)

舞人は採り物として通常、右手に卯杖とよばれるものを持つ。それは樫の木の杖で、長さは五尺三寸、上部に奉書を巻き、その先に三つ又のカラタチを出して一つに結ぶ。以前は奉書の中へ五穀を入れたという。この杖で地を突くことにより、大地の精霊を鎮めるのである。

つぎに「竹川」を陪従が謡い出すと、舞入は卯杖を持って正面へ順に進み、右・左・右と足を開いて「卯杖舞」を一回ずつ舞う。

そして陪従が「浅花田(あさはなだ)」を謡い出すと、舞入は右肩袖を脱いで右手に中啓(ちゅうけい)を持ち、順に正面へ進み出て「扇舞」を舞う。緋の片袖が鮮やかである。

 

「浅花田」
「あさはなた こひはなた そめかけたりとみるまへにたまひかるやしたひかるやせん たのしゆしやかのしたりやなきまたまたありとせんたあきはきなてしこから あふひのしたりやなき」

舞人の「扇舞」が終わると、詩頭と高巾子の出番になる。雁使が面筥から仮面と冠を取り出し高巾子役に着ける。詩頭も雁使から頒文を受け取ると正面へ進み、その約二間あまり後方に高巾子が立つ。詩頭は、13段(現在は7段)からなる巻物仕立ての頒文を両手で持ち、本文を段ごとに読み上げていく。段の区切りに「カナワサ右」、または「カナワサ左」と言い、その方向の肩上へ両手で持った巻物を、詩頭が担ぎ上げるようにすると笛役が笛を吹く。構えていた高巾子は指示のあった方を向き、振り鼓を上げて振るのである。その振り鼓の音を聞いて、かつては参拝者各自が作物の豊凶を占ったと伝えられている。「オベロベロ祭り」の名は、振り鼓の音に由来するという。

 

頒文の内容は、熱田の宮および神宮寺を称え、天候が順調であり、作物と養蚕の豊かなることを予祝し、祈るものであった。その13段あるうち、神宮寺にかかわる内容の段だけを脱落させたものが、現在も読まれている先の七段なのである。頒文の区切りに「カナワサ」と詩頭が言うと、笛役は笛を吹き高巾子が振り鼓を振る。笛の音は一節だけであるが、音色は5月4日の酔笑人神事と似る調べである。

 

頒文は、宮中における踏歌節会の言吹と共通する。それは、芸能の中で豊作を予祝する寿詞を唱えているからである。しかし、熱田では大変長い内容となっており、北設楽郡設楽町の田峯田楽で読まれる夜田楽の一つ「おしずめよなどう」の祭文に通じるものがある。豊作を祈願する祭文が途中で読まれる行事は、市内中村区のきねこさ祭りなど各地の田遊び系芸能で見ることができる。それはおそらく歳神や田の神への願文なのであろう。

 

詩頭が読む踏歌祭頒文の区切りに高巾子が振り鼓を振る。先に紹介したように、古くは行事を見に来ていた農民が、その音を聞いて今年の豊凶を占ったという。小さな音が庶民には神の声に閲こえ、これから始める耕作の指針にしたのである。

 

「振り鼓」というのは、「でんでん太鼓」のようなもので、三つ巴が描かれている。

その音は、「オベロオベロ」というよりは、「カタカタカタ」という感じであった。

踏歌祭頒文が終わり、高巾子の仮面が外されると、陪従が庭の南側中央で東西横一列に並び「何そもそも」を謡う。舞人は最初と同じように卯杖を持ち、正面に進み出て一礼する。そこを三回巡ると大前での踏歌神事は終了するのである。宮司が退出し、他の祭員もそれに従って斎館へ戻る。

 

「何そもそも」の歌詞は、
「なにそもそも なにそもそも あやかやにしきかや なにそもそも なにそもそも なにそもそも いとかやわたかや なにそもそも なにそもそも なにそもそも いねかやもみかや なにそもそも」

 

「そもそも」というのは、中国語の「何(しぇんも)」が「そも」になったのかなあ、、、と思った。