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冬至 末候 雪下麦を出だす (せっかむぎをいだす)
冬至の末候、「雪下麦を出だす」は、降り積もる雪の下で、麦が芽をだすころ。

地中や、冬木立の枝先で植物は芽吹く力を育む。

新暦では、およそ12月31日~1月4日ごろ。

鳥越憲三郎著「歳時記の系譜」によれば、31日大晦日の「除夜の鐘」について、下記のようにある。

「その除夜の鐘の起源は、中国の宋時代にはじまり、わが国では鎌倉以降に入った禅寺で、中国の寺院と同じく朝暮の二回、百八の鐘を撞くようになった。それが室町ごろから除夜にだけ撞くようになり、いつしか百八つの煩悩を消滅するためだという解釈になっていった。そしてその風習は神社へも影響を及ぼすようになった。

こうして除夜の鐘が年頭を知らす合図となり、その鐘が人々に強く意識づけられるにつれて、それまでの習俗を変えさせることになった。例えば、大晦日の夜はおそくまで起きているものだという風習もその一つである。

除夜の鐘を聞くまで起きていて、とりあえず元日を迎えたことにして寝たいという考えである。大阪でもヨネンコウといって、この夜に早く寝ると白髪になるとか、顔に皺がよるとかいった。」


また同書に、大晦日の夜に行われる「火替えの行事」についても述べられている。

「もとは冬至の日の太陽の復活儀礼として行われたものである。しかし暦が改まる新年が重視されるにつれて、冬至の火替えがそのまま大晦日に移った。

・・・・・・・・。

社寺の火祭で有名なものに、大和の三輪山山麓にある大神神社(おおみわじんじゃ)の繞道祭(にょうどうさい)がある。

大晦日の零時に神官が拝殿で鑽火をつくり、それを金燈籠に移す。さらに50メートルほどの大松明にうつし、50人あまりの白丁姿の男たちが、大松明を担いで境内から周辺の摂社・末社をめぐり、午前5時ごろに本社に帰る。その火を参詣人は火縄にうけて帰り、雑煮を炊く火にする」


この「繞道祭」は、私も見に行こうと思っているが、年末年始は何かと用事があって果たせていない。


同書によれば、門松と注連縄の源流につて

揚子江中流域の住人、楚国の習俗を記した『荊楚歳時記』によれば、

「葦索(いさく)・絞索(こうさく)は葦で作った縄で、わが国の注連縄にあたり、松柏は門松を示すものである。

葦で作った縄は悪鬼をしばるもので、それを門戸に懸けるのは、悪鬼を近寄らせないため呪具である。わが国で聖なる地域を区画する意に用いる注連縄は、もと中国で悪鬼を就縛する呪具として、元日に門戸にかけた縄に起源をもつものであったことがわかる。

聖域を守るための呪具としての観念は、わが国でも正しく受け継がれてきた。ただ、稲作の関係で、わが国では藁を用いるようになったのであろう。

しかも「しめなわ」は注連縄・七五三縄と書くが、これは縄に垂れをつけることからの当て字である。本来は「締め縄」であったとみてよい。ところが絞索の「索」は縄、「絞(しばる)」と「締(むすぶ)」とが同じ意味であることもおもしろい。」


門松については、

「また松と柏とは、ともに四時色を変えないことから、中国では人の節操ある喩えとして用いられ、さらに永く栄えること、長寿の意ともなった。『史記』にも松柏を百木の長として、宮殿を守る木としているが、中国では最も尊重された喬木である。・・・・・・・。

そこで中国では、家族の節操と長寿を表徴する松柏を門前に立てたのである。わが国では門松といって、松だけを取り入れたようにみえるが、実際にはそうではない。松を代表させて門松とはいうものの、地方では、柏にあたる常磐木(ときわぎ;いわゆる常緑樹)が用いられているのである。


「このように、悪鬼をはらう呪力をもつ桃符を門戸に貼り、悪鬼を近づけないために葦の縄をかけ、また松柏を立てて年頭に節操の意思を固め長寿を願おうとした。つまり中国における元日の儀礼は、悪鬼を退散させて、身内の邪気を払い、節操高く一年を送ろうとすることに主眼があった。

わが国では、それが注連縄になり、門松となり、表現形式においては同じである。しかし、それがもつ意味内容においては変わっていった。

悪鬼を就縛する呪具としての絞索を門戸にかけるのは、それを見た鬼どもが近づかないためである。わが国の注連縄も、それが張られた域内には、悪鬼が入れない呪的力があるものと考えられている。その点では全く同じである。しかし意識の上では、その域内が神の降臨ないし占有地であるという観念の方が強い。正月の各家に注連縄を張るのも、神が迎えられている聖なる家であることを示すためである。

したがって、絞索と注連縄とは本質的に同じである。だが、わが国ではそれがもつ呪術的意味よりも、聖域確保ないし明示という清浄観念の方が強く支配するものとなった。

そうした変移は、門松においても同じである。・・・・・・。

門松に若松やその他の常盤木を選ぶことでわかるように、その基底においては中国の思想をそのまま受け入れてはいる。・・・・・・・・。

明治に入ってから、門松に松竹梅を立てるようになる。中国ではこれら三種が、厳寒に耐えて節操をまげないものとして称えられるようになるからである。そして「歳寒の三友」として、しばしば画題に用いられた。竹や梅が加わったのも、松柏の思想にもとづくからであった。・・・・・。

しかし、それは儒学者の論理の上で行われたものであって、一般の民衆は節操を守るという厳しさには背を向け、平和なめでたさとして、松竹・松竹梅を迎えたのである。」


「さらに、もっとも中国と異なる点は、わが国では門松を正月に訪れる年神さまの依料(依代)としてみたことである。松柏は神の依料ではない。八十万神・八百万神をみとめていった日本人の思考の上で、道徳的内容をもつ松柏を、神の依料としての聖木に変えていったのである。・・・・・・・・。

だが、(年神さまを)門の外に祭るということは、誰が考えてもおかしなことである。・・・・。そうした矛盾が人々の心にあったためであろうか、座敷の上段にある床の間に、年神さまを祭る新しい形式が生まれた。・・・・。床の間の上には注連縄が張られ、床には神への供物が進ぜられた。三宝にに裏白を敷き鏡餅をのせ、このほか橙・昆布・串柿・伊勢海老など、めでたい品々が飾られた。

その時期はすくなくとも室町期以降とみてよいが、・・・・。さらに江戸期も末になって、玄関の間に歳徳棚を吊り、注連飾りや小松・小餅・神酒などを供える形式が生まれた。その年の恵方に向けて祭ることから恵方棚ともいうが、陰陽道の学者が考えた方法であった。・・・・。

こうして年神さまを祭る場所が、屋敷内に幾個所もできた。門口に門松があり、家の中には歳徳棚があり、さらに床の間には蓬莱飾りがしてあって、年神さまは一体どこに鎮座してよいのか迷うだろうと思う。・・・・。

神祭りが好きな日本人だけに、やたらと祭り場をつくったのであるが、もとはといえば、門の外の門松を年神さまの依料としたことに矛盾があったのである。」


年神さまについては

「年神さまも正月という一時期に現れるということで、ただ年神と呼んで特殊化したものの、普遍的神としての性格を内包しているのである。そのために、年頭に訪れて家族の平和と繁栄をもたらす神であろうと、漠然と受け取られているのにすぎない。それだけに、田の神でも祖霊でも、いかなる神にも仕立てることができたのである。性別が明らかでないのも、普遍的神が名をもって特殊化されただけで終わっているからである。・・・・・。

つまりは年神さまの属性が漠としていることから、古来からの門松による神迎えのほかに、それぞれの生業にちなんで、海の神や農耕神を年神さまとみて、新たに神を迎える方法を考え出したのである。・・・・・。

そのために、ただ年頭に家族を祝福する神であれば、いかなる神にすることができた。そのことは注連飾りや供物を進ぜる場所が、屋敷内外のいたるところにあることをみてもわかる。門松や床の間の飾りは別としても、倉・納屋をはじめ竈や井戸、また臼などの農具、さらに浜にある舟にまで、輪飾りをして供物を進ぜる。神がいますと思うすべての所に祭るのである。」


浜名湖の湖北、都田川流域と天竜川の支流阿多古川山間部には、「おくない」「ひよんどり」と呼ぶ芸能が点在していて、2019年、2020年に見物した。

滝沢のおくない 浜松市北区滝沢 2019年01月01日
寺野のひよんどり  浜松市北区寺野  2019年01月03日 
懐山のおくない 浜松市天竜区懐山  2020年01月03日 
川名のひよんどり  浜松市北区川名  2019年01月04日 
滝沢のもみ飯祭り  浜松市北区滝沢  2020年01月04日 
川名のシシウチ・的打ち  浜松市北区川名  2020年01月04日

お正月といえば、

「お正月といえば、炬燵を囲んで、お雑煮を食べながら、カルタをしてたものです。・・・・・」という「はっぴいえんど」の「春よ来い」という曲がある。

私が高校生のころ、「岡林信康さん」が全盛期のころで、ボブ・ディランがバンドを従えてフォークからロックに移行していったように、岡林さんが「はっぴいえんど」をバックにしてロックを始めた。

そのとき発表されたのが「見るまえに跳べ」というアルバムで、その中に早川義夫さんの曲をカバーした「ラブ・ゼネレーション」という曲があり、「おとなっていうのは、もっと素敵なんだ」と、泣きじゃくるようなギターが大好きになり、はっぴいえんどが1枚目のアルバムを出したときにすぐ買いに行った。

そのレコードの1曲目が「春よこい」。この曲で「つかみはOK」、その後発表された3作目までLPレコードを買うことになった。

東京にいた大学生のころ、はっぴいえんどの解散コンサートにも行ったんだなあ。

当時は、レコードはいいけどライブはひどい、といわれていて、確かにライブの演奏は良くなかったように記憶している。


2022年1月28日 記

12月31日の朝散歩に出ると、散歩コースの向こうのほうに見える「山宮神社」で、新年を迎える準備をしていた。


今年は、深夜の清掃アルバイトのシフトが31・1・2日にめぐり合わせてしまい、新年は、モップを握って床拭きをしながら迎えた。

1日早朝帰宅してひと眠り、7時過ぎに目が覚めて、まずは、スーパーのベイシアで仕入れた、数の子、昆布巻き、黒豆で、地酒の「花の舞 純米」を一杯やる。


お雑煮は、11月から続けている「おでん鍋」で、昨年思いついた、油揚げの中にお餅を入れた、餅巾着ならぬ、私が命名した「餅財布」。

油揚げが出汁を吸っておいしい。

 

12月までは青々としていた庭の池の「田芹」が寒くなり枯れ始めた。


2024年1月4日 記

今年の冬至の末候は、1月1~5日。

今年の年末年始はポカポカと暖かい。

今回も12月30・31日、1月1日の夜はホテルの夜間清掃のバイトにあたってしまい、のんびり新年を迎える、とはいかなかった。

31日夜から1日早朝までの仕事を終えて帰宅してから、とりあえず日本酒の純米原酒を一杯やってひと眠り。

朝起きて、昼食もかねて本格的に飲み始めた。

今年の我が「おせち」はバージョンアップして、上段は自家製のコノシロの酢漬け、ブリ(ワラサ)の塩麴漬け、黒豆、蕪と新玉葱の甘酢漬け、下段は、卵焼き、魚屋で仕入れた数の子、スーパーで仕入れた、昆布巻き、蒲鉾、生ハム、ゴーダチーズとチェダーチーズ。


若いころは、甘いつまみと日本酒は苦手だったが、歳をとるとともに、甘いのが好きになってきた。

夏は、日本酒は全然飲む気がしないが、冬は、甘い日本酒が一番。

冬に甘いものを欲するのは私だけではないようで、ネット検索してみると、「冬に甘いものが食べたくなるのはどうして、脳科学の専門家に聞いてみた」という記事があった。

仮説のようだけど4つ理由があげられいて、詳しく解説されている。。

1.冬は代謝が上がりやすいため、エネルギーを消耗しやすい
2.冬は気候からうつになりやすいため
3.夏と比べて相対的に冬のほうが甘いものを欲する傾向があるため
4.冬のクリスマスやバレンタインなどのイベント効果


日本酒は、白身の刺身など淡白な食べ物をつまみに飲むと、その甘味が白身の旨味を引き出してくれるが、甘いものをつまみにすると、一気に「辛口」になる。

「甘味で甘味を制する」というのは、若いころ沖縄で車エビ養殖の修行をしていた時に、師匠のTさんの晩酌に毎晩おつきあいしていて、ある時、Tさんが羊羹をつまみに日本酒を飲んでいて、えぇぇぇ、と驚いたが、まあやってみろ、と言われて試してみたら、日本酒が甘さを全然感じない辛口になって、なるほど、となった次第。


雑煮は例によっておでん鍋で、油揚げの中に餅をいれた「稲荷餅」。

今年は、焼津産、鰯の「黒はんぺん」も入れてみた。

古川瑞昌著「餅博物誌」によると「天下餅」という戯画があるそうで、

「信長は最も困難な仕事を引き受けて餅をついている。秀吉はそれを手伝って、それを円めている。そして家康は・・・・それらの餅を食べている」


 

これで夜の仕事に備えて昼寝をして、16時過ぎに目が覚めて、さあ起きようか、というときにグラグラと地震がきた。

結構長く揺れて、私として記憶にないくらいの揺れだった(浜松は震度4)ので東海地震の前触れかと思ったが、遠く能登半島が震源ということで驚いた。

新年早々の地震で、被災地のことを思うと、神も仏もないなあ、と思う。