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御田神社

「御田みた)」は、神聖な田を意味して、古来御田を祭場として祭儀がとりおこなわれていた。

伝承地は、熱田神宮の摂社「御田神社」を当てるのが通例だが、中村区岩塚町の七所神社の摂社「御田神社」に当てる説もあり所在地を断定することは難しいそうだ。


<熱田神宮の摂社御田神社>

【所在】

江戸時代には、熱田神宮本社の西南、楠木御前社の西隣に南面していたが、明治初年に遷座され、現在、土用殿の東方、神楽殿の東から北の清水社へ通じる参道の中ほどに西面して鎮座する。

往古には、田の中に鎮座されたものと考えられ、その点で熱田神宮の東方に「御田」の小字名が存在することが注目されてる。


【由緒】
創祀年代は不詳。

「熱田宮鎮座次第」によれば、当社は左右神祇社と並び天武天皇の朱鳥元年に祀られたと伝えられている。江戸時代には「宝田社」「御田ノ御前」とも称せられ、熱田神宮の摂社とされた。

【祭神】

現在、五穀豊穣の守護神である「大年神(おおとしのかみ)」を祀る。

江戸時代には、通例、「保食神(うけもちのかみ)」を祀るとされたが、その他に、田穀生成の霊である「雅彦神」とする説、保食神と雅彦神の二神を併せて祀る説などがあった。

【祭祀】

例祭は、6月18日に行われ、「御田植祭」と称され、五穀豊穣を祈る祭儀で、この時、当社の神前において、早乙女四人の優雅な田舞が奏される。

3月17日に「祈年祭」、10月17日に「新嘗祭」が行われるが、これは神饌の粢(しとぎ)を土用殿の屋根の上に投げ上げ、これを烏が食べてから祭典が始まる「カラス祭」として著名である。

昔は、本宮の祈年祭が二月上巳午日に行われ、これに続き翌未日、当社神前にて稲贄(いなにえ)田植祭、御烏祭が行われた。
また新嘗祭も本宮の十一月初寅卯日に続き、翌辰日に稲贄田刈祭、御烏祭が行われた。
当社神前での祭儀は、祈年祭・新嘗祭の最終日に行われる直会の宴と考えられ、いづれも祝部(はふり)によって田遊びが演じられ、終わって祝師(のりとし)が倭舞を舞った。

【社殿】
 

江戸時代には本殿のほか拝殿も存在した。

また、「熱田神體本紀」によると、祈年祭・新嘗祭の二季の祭典ごとに新宮を建てたと伝えられている。

【参拝記】

御田神社には、2009年12月20日に熱田神宮の摂社・末社も見て回った時に参拝したほか、2012年6月18日に行われた「御田植祭」、2013年3月17日に行われた「祈年祭」を見るために訪れている。


<七所神社内の御田神社>

【所在】
名古屋市中村区岩塚町上小路7番地に鎮座する「七所社」境内の東に位置する。

岩塚本通の庄内川にかかる万場大橋の手前に位置して、江戸時代には佐屋街道が当社の南を通り、宿駅として賑わった。

【由緒】
御田神社の由緒書によると、


「式内社調査報告」によると、昭和7年に「御田天神」と刻まれた平安時代の鏡が発見されたことから、小塚を作り、小社を建立、のちに東の現在地に遷座されたものであるということだそうだ。

そのためか、式内社調査報告は「七所社」そのものを御田神社の候補の一つとしている。

【祭神】
神社の由緒書によると、「豊宇氣大神」。

【社殿】

簡素な造りの拝殿と、覆い屋の中に神明造りの本殿がある。

<七所社>

 

当社の創祀年代は不詳。現在、社名は「七所社」と称しているが、古くは、「七社祠」「七社ノ社」「七社明神社」また、単に「明神」「大明神」とも記されている。

祭神は、「式内社調査報告」によると、熱田七社を祀るもので、日本武尊・宮簀媛命・乎止與命・成務天皇・草薙剣・倉稲魂命・軻遇槌命の七神を祀るとあるが、神社に掲げられている由緒書では、日本武尊・高倉下命・天照大神・宮簀媛命・倉稲魂命・乎止與命・天忍穂耳尊の七神になっている。

以前尾張の神社の祭神の分かる資料はないかと熱田神宮の資料室を訪ねたときに、祭神については、時代によって変わるので、そんなにこだわることはない、と教えていただいた。

とはいえ、「熱田七社」とは、どの神社のことだろうとの疑問は残る。


【参拝記】

2010年5月9日、名古屋の実家から自転車で七所社方面へ「八釼神社」をいくつか巡りながら「七所社」を訪れた。

鳥居をくぐると拝殿との間の正面に石造りの「蕃塀(ばんぺい)」とよばれる遮蔽物がある。

これは、悪鬼や悪霊は直線的にしか進めないために、その侵入を防ぐために設けられているという沖縄の「ヒンプン」と同じものだろうと思う。


中国でも「影壁」とよばれるこうした壁が残っていて、私は浙江省の金華市で散歩をして「太平天国侍王府」で立派な「影壁」に遭遇した。
その写真は、後々、中国でいろいろな所を散歩した項目で紹介します。


そして、コンクリート造りの拝殿が南面して建つ。


拝殿の銅板葺きの屋根には、「三つ巴」の紋。

 
 

本殿は覆屋の内にあり、見ることはできないが、式内社調査報告によると、三殿並んでいるそうだ。


祭神の七神のうち、乎止與命の上知我麻神社は、別の小社に祀られている。


境内社は、その他に、白山神社・石神社・熊野社・白山社・若宮社・天神社・神明社があり、天神社があるためか、牛の像も境内の片隅に奉納されている。


七所社の拝殿東側に、日本武尊が腰掛けたという「御腰掛岩」があった。

 
 
 

日本武尊が東国を平定して尾張へ戻った後渡船を待つ間にこの岩に腰掛けたということは、ここから舟に乗って伊吹山に向かったのだろう。

 

腰掛岩のすぐ横に「古塚」と石柱が立つ古墳がある。


 

奈良時代初期のものとのことで、古墳としては新しい時代のものだ。


この古塚の目の前、南側に「周囲に濠をめぐらせているもの」がある。


拝殿西側の古墳はよくわからなかったが、戦没者の石碑の立つ膨らみがそれだろうか。。。。

 


保存樹のエノキの新緑が美しい。


七所社へ来るときに、神社の北側にある「御神田」にも行き当たった。


七所社では、特殊神事の「きねこさ祭り(御田祭)」が有名で、この祭りは、旧暦1月17日に行われ、2012年2月8日に見に行った。