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きねこさ祭り

2012年、旧暦の1月17日、新暦の2月8日、中村区の七所社で「きねこさ祭り」があり、見に行った。

 

七所社は以前訪れたことがあるが、名古屋の実家からは自転車で20分ほどで行ける。


祭りのHPによると、

「毎年旧暦の1月17日に厄除け、子孫繁栄、天下太平、五穀豊穣などを祈念し て行われる祭礼で、特に厄除けに霊験があると伝えられている。 「きねこさ祭」の名前は、祭りに使用する祭具のきね(たて杵)とこさ(杵か らこすり落とした餅の意)に由来する。

まつりの歴史は、神社の創建とともにあり、千年以上の歴史があると伝えられている。現在も使用されている祭礼時の衣装や祭具の形状が、鎌倉時代以前の特色を残していることから、少なくとも鎌倉時代には、ほぼ現在と同様な形での祭礼が行われていたと推定される。

祭礼の中心は後厄(42歳)の男性10名と厄年の子供2名の12名である。神社内の社務所で3日間の潔斎(早朝の冷水での禊など)を経て当日を迎える。また、参道の入口には、氏子の手による大注連縄が飾られる。

当日は、庄内川での川祭り神事、古式行列、境内での厄除け神事などを行っている。」

私は、12時前に神社に到着して、境内をうろうろしているうちに12時半になり、まずは「川まつり」が始まった。

祭りの経過を「新修名古屋市史09 民俗」から、一部変わっているところは訂正して記すと、

 

午後0時30分頃、社務所入口にある囲炉裏で松が焚かれ、煙りが立ち込める部屋の中で、浴衣姿になった12人の役者が、恵方から種おろし祭文を読み始め、囲炉裏の周りを回り、終わると社務所から出てきて社殿の横に立て掛けてある竹を全員で持って庄内川へいく。

 

神社から南へ佐屋街道まで出て、それから西の堤防を上がり、県道を越えて河原に降りて川岸まで行く。そこで下帯姿となった役者は多くの観衆が見守る中、一団となって川の中に入っていく。中央にある目印の竹まで歩き、全員で持ってきた竹を立ててその周りを囲んで支えると、笛役が登り出す。種おろし祭文を一節唱え、笛役は持ってきた天王さんのお札を川へ流し、竹を折るのである。竹が東南へ折れるとその年は豊作だという。岸へ戻り浴衣を着た役者は再び神社まで走って行く。社務所の中へ入る前に必ず塩湯を飲むことになっている。

庄内川へ流す天王さんのお札は、岩塚四地区(上小路・西町・下小路・東町)が、津島市の津島神社から受けてきた「津島神社神札」である。前年の7月2日から9月2日まで、それぞれの地区で祀ったものである。それを、きねこさ祭りの時まで保管しておき、一つに束ねて大注連縄につけたものと同じ紙垂をつける。これを「お防ぎ様」「おいせんさん」とよんでいる。

川から神社へ戻ると、竹の折れた方向が「南東」で、今年は「吉」との表示があった。


この後2時過ぎまで時間があって、出店でワンカップを買って、近くの公園で一休み。

境内へ戻って大きな切り株に腰掛けてのんびりしていると、大鏡の行列がやってきてあわてて拝殿のほうへ走った。

行列は、拝殿に鏡餅を奉納して、そのあと、社殿内で神事が始まった。

この間の経過は、

午後2時、佐屋街道の東端から神官と役者、そして厄年が中心となり、行列を整え神社まで練り込んでくる。道中は神楽太鼓を叩きながら進む。役者は専用の紋付などを着用し、厄年は大鏡餅を台車の上に載せて曳いて行く。役者が持つ祭具に触れると厄を免れるというので、多くの観衆は役者の周りに集まって来ている。

出発してから30分余りで神社へ到着し、拝殿内では役者も参列し神事が始まる。その神事途中において役者の出番がある。稚児役の者が、頭から赤い衣装を掛けて中央に進み、右手に大きな一個の鈴、左手に扇を持って、神楽太鼓の音に合わせながら舞う。舞うといっても、その場を回るだけの簡単な舞で、時間も短いものである。この舞は本来、大変重要な意味をもっていたと思われるが、いつからか形骸化したのであろう。本殿内の神事が3時過ぎに終わると境内の行事へ移る。

役者と神官は拝殿西側から出て境内の結界に入る。その上には注連縄が張ってあり、大きさは東西が7.2m余、南北は12m余の四角形で、ここが庭の行事の舞台となる。(注連縄の結界はなく、黒スーツの厄歳の男たちがぐるりと囲んでいる)

 

最初は「種おろし祭文」である。その年の恵方から右回りで祭文を読み始める。先頭に笛役が祭文の端を両手で持って掲げ、後に他の役者がそれぞれ両肩を抱いて続く。途中の「オロロ、オロロ、オロロ」と唱える時、小刻みに力強く地面を踏み、宮司は所々で切り紙を降り散らす。その祭文を読み終わるまでに四回くらい境内を回り、西北の角から全員が引っ込む。

 

そして「総まわり」が始まる。

種おろし祭文が終わると、太鼓打ちの役者が、結界の東端中央外にある台の上へ登壇する。太鼓を叩き出すと、神官と他の役者全員は列を正し西北の角から庭に出て、結界内を右回りで一周して東北角へ引っ込む。役者の順は、笛、獅子頭、後振り、犬、鷹、コサ、杵、イミホコ、稀児、傘鉾、射手である。それぞれの役者は南側正面に至ると拝殿を向き一礼する。二周月は東北角から入り、三周目は東北角から出て、神官は西北隅、役者は東北隅に引っ込む。

 

このあと、役者が、笛、獅子、犬と鷹、杵とコサ、イミホコ、田行事、傘鉾射手の八段構成で、3回舞台を回った後、社殿に向って拡げられた莚の上で決められた所作をおこなう。

 

この間、各役者が手に持つ杵などで厄歳の男たちや、我々見物人を叩いてまわり、「傘鉾」を抱えた連中が黒スーツや見物人めがけて突進してきて、祭りの主役は、「役者の所作」よりも、「傘鉾の突進」のようだ。

 

「所作」の詳細は、

 

笛 笛役が一人出る。侍烏帽子に高下駄を履き、左肩から藁を細く編んだものを掛けている。まず正面まで進んで一礼し、そこから右回りで中側を向いて回る。手には模造の大きな笛型を持つ。太鼓の音に合わせ「左足、右足、左足」と三歩進んでは立ち止まり、そこで笛を口にあてて吹く格好をする。正面まで来る度に一礼し、三周目は太鼓がドンドンと鳴るのに合わせ、笛を胸の前に立てて持ち、その場を三回まわる。

 

獅子 獅子は、獅子頭役と後振りの二人が一緒になって右回りで三回まわる。正面に来た時に獅子を舞わす。一回目は正面、二回目は太鼓の方(北東)、三回目は篝火の方(北西)を向いて薦の上でおこなうのである。獅子舞は、ツイコラの太鼓を一回叩いてから始める。この獅子を舞う時にもツイコラのリズムが基本となっている。すなわち、獅子頭役が左膝をつき、右から円を描くように頭を三回まわしてから一歩前に跳ぶ。これを三回おこなって三歩前に進んでから、今度は同じように頭を三回まわして後ろに一歩下がり、これは二回おこなって二歩下がる。獅子舞の基本構成は次のようになっている。それぞれツイコラの太鼓に合わせ円を描きながら獅子頭を三回まわし、太鼓の八打目から「ツイ(獅子の口を閉じて手前に引く)、テン(獅子を前に出して口を開ける)、パン(獅子の口を閉じて手前に引く)」となる。つまり一舞で三歩前進して二歩後退し、その最後は笛役が獅子に寄って行き、扇であおぐのである。

 

犬と鷹 犬と鷹の子役二人が出る。犬役が前で、四輪の付いた台にのせた造り物の犬を、両手で曳いてゆく。次の鷹役は、餌を入れた小さな籠を右腰にさげ、右手に木製の鷹、左手に女竹で作った鞭を持つ。三周して正面に戻ると、籠を腰からはずして犬と鷹の順に餌を喰わせる。ついで犬と鷹の口を棒でぬぐう。

 

杵とコサ 杵とコサの役者が登場する。コサは杵についた餅をあらわし、藁を芯にした大根様の物を短い棒に二つ吊り下げたものである。杵は竪杵である。臼に見立てた輪を腰につけたコサ役が杵役の前に進み、三周して正面まで来ると、薦の上に輪を置く。ここで杵とコサ役が、交互に「エッサ」「モッサ」と声をかけながら、臼に見立てた輪で餅をつく所作を三回する。

 

イミホコ イミホコは具足を着し、手には弦を張らない弓を持って登場する。腹のあたりに弓先をつけ、他と同じように左足、右足、左足を出して進むことは変わりないが、弓が長いので周囲で見ている人々は、それが来るとあたらないように頭を一斉に引っ込める。この繰り返しで進んで行く。三回まわって正面まで来ると一礼し、腹のところを支点にして弓をつけてクルクルと回しながら、結界西の中央外で藁を焚いている篝火の所へ行き、その燃えている灰を弓で三回かく。終われば、またクルクルと弓をまわして拝殿西側へ引っ込む。

 

田行事 田行事の所作は、稚児と田行事の二人の役者が担当する。鋤の天秤棒に人形を入れた種壺を吊るし、それを二人で担いで三周する。正面に来ると、田行事が持っていた団扇を地面に置き、そこへ種壺から人形を取り出して前に倒しながら「ネンネン、タウメテ。ネンネン、タウメテ。ネンネン、タウメテ。」と言う。これを三回おこなうのである。団扇を田にみなすのだといわれ、その一面には「天下泰平」、裏に「五穀成就」と書かれている。

 

傘鉾 傘鉾役は右肩に大きな傘鉾を担ぎ、これも三歩ずつ動く。三周すると正面で肩に担いだまま太鼓の連打に合わせ、その場を三回まわる。この時に傘鉾は一人で担いでいるが、順番でない時には何人かで傘鉾を抱え、見物の群衆へ突進する。

 

射手 射手は、女竹で作った長さ335cm余りの長い弓を持ち、イミホコと同様に、左右へ振り回しながら三歩ずつ進み、三周する。最後は正面に来ると矢をつがえて恵方に向かい「明けの方の烏を一羽打とう」と言ってから射る。これで境内の行事は終わり、片付けが始まる。

 

境内をウロウロしていた時に藁を燃やした灰の山があって、西尾でみてきた「てんてこ祭り」のときも「所作」で使われていたのと同じだなあ、と写真に撮っておいた。

境内に厄歳の表が掲げられていて、これまでも沢山の神社をまわって厄歳の表が掲げられていることは気がついていたが、自分には関係ないだろう、と表をじっくり見たことがなかった。

 

この日はじっくり表を見たら、数えの61才が厄歳ということで、まさに私も厄歳であることに気がつき、私もお尻や頭を何度か小突いてもらい厄払いをすることができた。