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07 报德の上流の村々
11月30日、雷山の闘牛は12月2日のA級の大会を見に行くことにして、翌日予定されている报德の鼓蔵節の「起鼓(ちぃく)」がどのように行われるか下調べに行くことにした。

郎徳上寨から上流へ歩き始めてすぐ、バイクが下流からやってきたのでバイクタクシーかと思い手をあげると止まって报德まで乗せてくれた。

报德の車溜りで降りて、代金はいくらか聞くと、お金はいらない、という。

彼は大きな声で、中国人好、日本人不好、といって走り去った。

車溜りにいた人たちは笑っていたが、私としては、頭をかいて苦笑いするしかなかった。

とりあえず鼓蔵節の会場になる川原へ行ったが、何も準備はされていなくて、山の上の方へ続く石段があったので登ってみた。

急な石段が続き息がきれたが、対面する报德の村を見渡すことができる。


その道を登りきると、「碧苟(びぃく)」という村があった。


村の人に「起鼓」は明日あるか聞くと、ここではない、ということで、また报德の車溜りへもどって何人かの人たちに聞いてみると、村の政府の人ならわかる、と携帯電話で聞いてくれて、ここから上流2kmほどの「也利(いえり)」という村で起鼓が行われる、とのことで、也利へ向った。

报德の村を出てすぐ、也利の鼓蔵節の横断幕があった。


そしてすぐに山の上の村へ続く分かれ道にバナナと笹竹で作った茅輪くぐりのようなゲートが作ってあったのでそれをくぐって登っていくと、おばさんが向こうから来るので、この先は也利ですか、と聞くと、ちがうよ、也利はあっち、と教えてくれて、また街道へもどり、その上流へ歩いていく。


川に沿って歩いてきたが、その川は也利の村の手前で洞窟の中へ消えていった。


村の入口の家に外で野菜を洗っているおねえさんがいたので、明日起鼓はあるかどうか聞くと、あるよ、との返事で、とりあえずここへくればいいことが確認できてホッとした。

也利は、新しく開発された村のようで、苗族としてはめずらしく、谷合の平地に村の家々が建っている。


時間はまだ11時ごろだったので、もっと上流のむらへも行ってみようと、也利の村を抜けると、また川があって、川沿いに道が続く。


その川沿いの道に、おまじないの作り物があった。


そこから1時間足らず登っていくと、「烏瓦(うぅわぁ)」という村があったが、その村へ入る手前の見晴らしのいいところにテラスのような出っ張りがあって、そこに石が祀られていた。


村へ続く道には、悪邪払いの通せんぼの印と思われる、茅を結んだものがが置いてあった。


そこからすぐ、村の入口にここでも鼓蔵節の横断幕が張られていた。


この村はかなり高いところにあって、この日は曇りで、村は雲の中にあった。


村の車溜りまで行き、売店でパンでも買おうと思ったら、売店前にいた青年が声をかけてきて、うちでご飯を食べないか、と誘ってくれたので、お言葉に甘えてご馳走になった。

大きな家だが、お母さんと二人暮らしで、豚肉とその内臓の鍋で米焼酎とビールをゴチになる。

食事をする土間には、薪ストーブがすえてあり、そこで食事をしたり、肉を燻製にしたりする。


その土間の一角に、土地神を祀るのか、竹ザルが祀ってあった。


彼はこの村を中心にして周辺の村々の位置を描いてくれたが、そうした村の位置は星の位置で記憶しているのだそうだ。

彼は話好きで、お互い通じない時は筆談にして話がはずんだ。

時間は16時をすぎ、歩いて帰るには2時間以上かかるのでそろそろ帰ろうと車溜りへ行くと、ミカンを売りに来ているトラックがいて、もう少しで帰るからちょっと待ってちょうだい、と郎徳上寨まで乗せてくれた。


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