表紙 / 弥生の原郷を訪ねて / 2回目の貴州 / 09 恵比須は太公望か?

09 恵比須は太公望か?
肇興で行われたお葬式を見ていて、お供え物の置かれた机があり、その中に、豚肉で作られた置物があった。

三角帽子を被り、釣り竿を持ち、釣り竿の糸の先にはお魚が付いている。

 

下の写真は、恵比須様を祀る神戸の西宮神社のお札だが、吉野裕子著「神々の誕生」によれば、

「エビス神像の特色は、三角形の竪烏帽子である。エビスの執物(とりもの)は鯛と釣竿。」


肇興のそのお供えを見て、「三角帽子に釣り竿、お魚」、正に恵比須像だ、と思った。

ちょうど、前日、「礼団鼓楼」で焚火を囲んで休んでいた時に顔見知りになったおじさんもお葬式を見ていたので、あの置物は何だろう、と聞いてみた。

その答えは、「じゃんこんてぃあおゆい」。

始め、メモ帳に、ひらがなでそう書いたが、「じゃんこん」が、「姜公」と気が付き、「てぃあおゆい」は「釣魚」と気が付いた。

1回目の貴州訪問で、榕江へ行ったときに、建築中の家の梁に厄除けの赤紙が貼ってあって、そこに「姜太公在此」とあり、「姜大公」とは誰であろうかと調べた時に、宋立達・杜玉春著「図説中国伝統神秘文化」という本で、「姜公」は「太公望」であることは知っていたので、なるほど、太公望が釣りをしている様か、と合点がいった。

ということは、恵比須神は太公望か?


太公望、「姜太公」は、

宋立達・杜玉春著「図説中国伝統神秘文化」、窪徳忠著「道教の神々」などによれば、

姓は「姜」、名は「尚」、字は「子牙」。先祖が舜の時代に「呂(現在の河南省南陽)」に封じられたので「呂氏」とも名乗る。

呂尚は、東海地方の生まれだが幼少のころからたいへん利発で、しかも天下の形勢を予見する能力にたけていた。殷末紂王の乱世をさけて遼東地方に40年間いたのち、周に行き、終南山にかくれて、渭水のほとりの磻渓で釣りをしていただ、3年かかっても1尾の魚も釣れなかった。人々が、もうやめた方がいいのではないかといって勧めても、お前たちの知ったことではないといって、相変わらず釣り糸をたれていた。ある日大きな鯉を釣りあげたが、その腹の中には兵法の要点を記した本が入っていた。たまたま周の文王は、そのころ聖人がいる夢をみて、渭水のほとりにきて彼を見つけて帰り、先生として師事した。彼は文王の子の武王を助けて紂王を亡ぼしたので、武王もまた師父として尊敬した。

その後、姜大公は、「斉(現在の山東北部)」に封じられ「斉国」の始祖となった。

姜太公は、その徳と功績によって人々が神格化し、「兵家鼻祖」として敬われた。

唐の時代、玄宗皇帝は、731年、東西両京と天下の諸州に太公廟を造り、呂尚と張良とを祀るよう詔を下した。そうして、孔子廟の例に従って、春秋の二期に祭祀を行うことにした。

次いで、760年に粛宗は呂尚を武威王に封じたので、太公廟は以後武威王廟と呼ばれるようになった。けれども明の太祖は呂尚は周の臣下だから、いかに功臣だからといっても王の位をもって祭祀をするのは不当だとして、武威王廟の祀りを中止した。」


「姜太公在此」というのは、宋立達・杜玉春著「図説中国伝統神秘文化」によれば、

「明時代の神話小説、「封神榜(封神演義)」では、姜太公は第1号の主人公で、紂王を討った後、封神台の上で「姜太公在此。諸神退位。我在衆神之上」と宣言し、その理由は、「お前たちの神位は屋内の地面の上にあり、我神位は家の梁にあり、自然、我はお前たちの上に在る。」と答えた。

この説話が民間に流布して、旧時代の民間では、家を建てるときに梁に赤紙に「姜太公在此、諸神退位」と掲げて、宅地の平安を祈った。

このほかにも「姜太公在此、百無禁忌」「太公在此、無所畏惧」「太公在此、一切随意」「太公在此、大吉大利」などがある。」


太公望は、東海の生まれで、晩年は、山東北部の「斉」に封じられ、その地の東夷の国々を平らげて「斉国」を造った。

東夷の国々は、鳥越憲三郎著「古代中国と倭族」「原弥生人の渡来」などによれば、「倭族」の国々であり、太公望はその地の人々にも神として祀られたことになる。

「倭族」は、紀元前数千年前から揚子江流域に居住していた人々で、稲作、文身断髪、高床式住居を特徴として、後の「呉・越」も「倭族」としている。

「越」は、呉を紀元前473年に亡ぼして覇者となり、越もまた紀元前334年に楚によって亡ぼされている。

越は亡ぼされる前に都を山東半島の付け根の「琅琊(現在の江蘇省連雲港市)」に移していて、山東半島周辺の民間信仰も受け継いでいるのではなかろうか。

陳舜臣著「中国の歴史」によれば、

「越が強盛になったというのは、海岸での活動も活発になったことを意味すると考えてよいでしょう。呉を平定したあと、越は周王室から胙(ひもろぎ)を下賜され、正式に諸侯、さらに覇者と認められています。沿海の国が覇者になったのは、海の民の意気が、異常に高揚したとみるべきでしょう。文身断髪の越の人たちは、精神的にも躍動するものをもったはずです。海に慣れた人たちですが、舟をより遠くへやる意欲がうまれたとみていいのです。国家が富強になれば、舟も良質のものができます。私は記録されていない越族の海洋活動を、ひそかに脳裡にえがいてみることがあります。
越が呉を亡ぼしたのは紀元前472年のことでした。越の滅亡はたしかな年代はわかりません。少なくとも、越が覇者としての貫録を失ったのは、楚に大敗した紀元前334年、あるいは紀元前306年であろうと推測されます。越の民心が躍動していたのは、その百数十年の間でした。」



越が亡ぼされた後、海洋民の越の人々が日本へ移住して「倭人」と呼ばれるようになったであろうことは容易に想像できる。


「琅琊」の地には、「徐福」伝説がある。

陳舜臣著「中国の歴史」によれば、

紀元前210年、始皇帝は巡遊中に死にました。満で数えて49歳です。
その年の巡遊には、始皇帝の末子の胡亥や左丞相の李斯が随行しました。湖北、湖南を巡り、長江に舟をうかべて浙江会稽山に登り、禹を祀って石碑を立て、北上して琅琊にいたったのです。
9年前に蓬莱の仙山へ不老不死の薬を取りに行くといって、始皇帝から莫大な資金をもらった徐福は、まだ薬を入手していませんでした。いつも大鮫に苦しめられそれで蓬莱島へ行きつけないのだ、という口実だったのです。
始皇帝はみずから連弩(連発式の大弓)をとり、之罘(山東省烟台市北部)で巨魚を射ました。
これで妨害するものはなくなりました。徐福は出発せざるを得ません。はたして出発したかどうか、「史記」はそこまでは言及していないのです。徐福は舟に乗って、蓬莱島へ行ったという伝承があります。
その蓬莱島は日本だという説があり、いま新宮市と熊野市に徐福の墓が立っています。
巨魚の祟りか、その直後に始皇帝は発病し、沙丘(河北省)まで行ったところで死にました。」


「蓬莱山」は、ウキペディアによると、

「蓬萊は、方丈・瀛洲とともに東方の三神山の一つであり、渤海湾に面した山東半島のはるか東方の海(渤海とも言われる)にあり、不老不死の仙人が住むと伝えられている。徐福伝説を記した司馬遷『史記』巻百十八「淮南衡山列伝」で記されている。」


ちなみに、肇興のお葬式で「太公望」と一緒にお供えしてあった豚肉でとぐろを巻いて山をつくってあったものは、後に肇興を訪れた時のお葬式で造っているところに行き当たって、聞いたところによると、「ぺんらいさん」、すなわち「蓬莱山」で、これも山東あたりの民間信仰との関連がうかがわれる。

こうしてみると、太公望も蓬莱山も「東方」を象徴しているようで、吉野裕子氏のいう陰陽五行説からの解釈でいえば、「東」=「太陽の上る方向」、これらの供え物は、西の山に沈んだ太陽(死者を西の山に埋葬する)が「こもり」を経て、東からの死者の再生を願っているようにも思える。


いずれにせよ、紀元前1000年近くも前から山東の東夷の民間で信仰されていた太公望が同じ倭族の「越」の民が山東へ都を移し、その信仰を受け継いだとしても不思議ではなく、海の民の越が日本へ渡ってきたとき「夷」の神としてその信仰をもたらしたとしても不思議ではないと思われる。


ただ、現在の恵比寿信仰は、学研の「図解日本の神々」によれば、

「七福神の一柱である恵比寿さまの出自については、「水蛭子(ひるこ)」に由来するという説と、「事代主神」に由来するという説に大きく分かれる。水蛭子とは、伊邪那岐神と伊邪那美神との間に生まれた最初の子だったが、3年たっても足が立たなかったので、葦船に乗せられ、流されてしまう。いっぽうの事代主神は、大国主神の子で、大国主神が天照大御神の子孫に国譲りをした際、自身もそれを受託して、姿を消してしまう。
実は、室町時代には水蛭子と事代主神は混同されて、「夷三郎」という神として日本各地に広まったといわれている。以後、町方、農村、漁村を問わずエビス信仰が浸透し、町方では商売繁盛、家内安全の神様となった。また、農村では竈神や荒神信仰と習合し、稲の豊作をもたらす田の神としての性格を持つようになった。さらに漁村では、豊漁をもたらす神となり、海岸や岬に祠を設けて祀られることが多くなった。
そのルーツとされる水蛭子や事代主神の逸話は、必ずしも幸福に満ちたものではないのだが、その発展形である恵比寿神は、幸福をもたらす神として民間に浸透していったのである。
ところで、恵比寿といえば通常、狩衣に指貫(さしぬき)といういでたちで頭に風折えぼしをかぶり、左に鯛を抱えて右手に釣り竿を持った姿で描かれる。これはどうやら、出雲の美保崎の海で釣りをしていたという、事代主神に由来するようだ。
また、海辺に流れ着いた漂着物を「えびす」と呼ぶ地方もある。これは葦船に乗せられて流された水蛭子が流れ着いたことによる。
いずれにしても、恵比寿神と海とは深い縁がある。古くは異民族を意味する語として用いられ、とくに辺境の海岸や島などに暮らす人々のことを意味した。国譲り神話において天孫と対立し、最終的には国を譲った出雲系の神、すなわち事代主神との関連性も、ここに見られる。」



私は、出雲は、海の民、「越」の人々によってつくられた国だと思っていて、彼らが信仰していた元々は「太公望」であった神様が「夷(えびす)」となり、長い時間ととともに「事代主神」へと変貌していったのではないかと思っている。

10 紀堂・登江 へ