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08 肇興のお葬式
翌10月18日は早朝から爆竹の音が聞こえてきて、断続的に爆竹が鳴るので見に行くと、智団鼓楼でお葬式が行われていた。

侗族の葬送文化をみることができるいい機会なので終りまで見物させてもらった。


家族単位か、一族単位かで弔問客がそれぞれ数人~十数人でやってきくる。


一団の弔問がすむごとに爆竹が鳴らされる。


お棺は、船形木棺で、侗族は越の末裔で、本来海の民であったことがうかがわれる。


あわてて旅館へビデオカメラを取りにいき、この日は村の西の山に埋葬されるまで見物した。


このお葬式で、吉野裕子著「祭りの原理」に述べられている事象をいくつも見ることができた。

氏の「祭りの原理」とは、

「日本の祭りは、年の折目節目に神をこの世に迎え、食を捧げ衣を供して、人の幸と穀物の実りを願い、それがすめぱ再び神をその居処に送り出す、この一連の儀礼である。祭りの始終は、要するに紳迎えと神送りである。祭りの原型は神話にあるとすれば、その神迎え、つまりこの世への神の顕現は、当然人の生誕になぞらえられているだろう。そして、神迎え.が人の生誕の擬きであるならぱ、神送りは人の死の擬ぎであろう。人問界への神の去来は具体的な形でとらえられ、人間の生死からの類推によっているに相違ない。国生みや神々の誕生が人の出生に擬かれているのに、祭りにだけ、突然抽象的な思惟が導人されているとは考えられないのである。

人間生誕の前提となるものは両性の交合・受胎・出産の三過程である。この過程を始めから終りまで敬虔に擬き、その擬きのなかに神の顕現を期待し、実感するのが、「神迎え」だったのではなかろうか。それに対し、「神送り」は人の葬送になぞらえられる。古代日本人は「死」を「生誕」とはそっくり逆の現象としてとらえていた。逆の現象とは、母の胎を通って生まれて来た人間は必ずまた母の胎にかえり、その胎児となってあの世に帰る、ということである。

より正確にいえば、古代における生と死は本質は同じで、その方向が逆の事象といえようか。その本質とは生も死も他界に新しく生まれ出ることであり、そのためには一定期間穴にこもることが必要ということ、この本質において生と死は同じなのてある。ちがうのはその方向だけである。死がひどくおそれられたのは、その死醜からくる穢れの観念ばかりではなく、その方向の違いが大きな原因であろう。

死者は母の胎を通ってあの世に新生、もしくは帰るが、もちろん死者を納めるべき真生の母の胎などあるはずはない。暗く深い穴、岩、円錐形の山などがその場合の人工的母の胎であった。死者を送り出すばかりでなく、神送りの場合にも擬似母胎として円錐形の山が選ばれた。円錐形は女陰を象徴するから、ここを通して神はこの世に去来すると信じられたのである。人が胎児として母の胎に納まるためには性交がその前提となる。たとえその胎が擬似物であろうとその必要とされる前提条件に変りはない。したがって神送りにもまた神迎えの際と同様、性交・受胎・出産の擬きがそれぞれあったと考えられる。神送りが人の死につよくなぞらえて考えられる場合には、神人を殺すこと、または死にふかいかかわりをもつ動物を殺すこともあったろう。神に密着するものの死によって、神を間違いなくその本貫に送り出そうというのである。人も神もそのものの本貫に返す、この世に用ずみのものをここに留まらせない、その所属をはっぎりさせる、用ずみのものの一掃、それが古代日本人の清浄の観念であった、と思われる。」


そして、「死」については、

「古代日本人にとって、「.死」は生まれ出て来た処に帰ることであった。人間の生と死を考える時、彼らの心の中には常に海と空が一つになった処、現実と想像がないまぜになった理想郷、常世の国があった。つまり「生」の前にあるのも常世の国、「死」のあとに在るのもまた常世の国であった。ただし人における「生」の場合、東方の常世の国を基点として西方の現世に生まれると考えられたと同様に、「死」の場合はこの現世を基点として西方に行くことにより、太陽と同じように東方に生まれ代わると信じられたようである

常世の国と現世の間に、母の胎という洞穴があったように、現世と常世の国の間、つまり生と死の問にも太陽の洞窟同様、「墓」という穴が必要と考えられた。ここにいう墓は広い意味の「墓」で、この中には天然の海岸の洞窟、岩屋、山中の穴も、人工の塚・墓・喪屋もふくまれる。」


今回のお葬式では、遺体は「西の山」に葬られた。(ただ、のちのち遭遇した村の東側の団の葬式では、棺は東の山に葬られた)

「沖縄の葬礼」と同じこととしては

「沖縄の葬礼をみるとその中から浮び上って来るものがある。それは「方.位」と「性」である。

方位―西、性―女

方位と性が葬礼の中に深い関わりをもっているのは、この二者が葬いの本質にあるからであって、決して偶然ではない。

母の胎に擬らえられた洞穴、墓に胎児として死者を納め、その胎児を常世の国に新生させること、それが葬いであることは前にもいった。そこで葬いは常に死者が常世の国に帰り得られる方位西を志向し、死者の常世国への新生をはかる上からは、女性がふかいかかわり合いをもつことになるのである。」

「枕飯の飯は円錐形に盛られる。これは女陰を象徴するので、ここに古来男根になぞらえられる傾向にあった箸を立てることは、性交の擬きではなかったか。箸はまた十字、又は×字形にくんで飯に立てられることもある。沖縄ではこの形をアジとよぶが、この形は本来陰陽交合を擬くという見方もされている。スデルこと、生まれ出ることをものの基本においた古代人にとって、スデルことの前提である性交はさらに大きく深くあらゆることの根元になることとしてとらえられた。アジ形が交合を象どるとすれば、後代それが魔除けの印としてひろく使用されることになった理由もうなずけるのである。アジに組んだ箸を飯につき立てることは、二重の性交儀礼を意味するものかもしれない。

肇興では枕飯は、円錐形の盛られた飯に二本箸を立てる)。


「遺体は二番座に安置されるが、その遺体を取巻いて坐るのは女である。その女達は皆青いクバの葉を手にする(沖縄石垣)、宮古島でも葬式に青クバをつかう。クバは男根を象徴すると思われるからその葉にも同様の呪力が感じられ、この 葉を女が手にするのは陰陽交合の呪術であろう。

肇興では男女交合のシンボルと考えられる鼓楼に安置された棺を女が囲む。


「野辺送りの際、棺側を取りかこんで行くのは女である。現在も霊極車に乗り込むのは、宮古でも石垣でも女である。遺体に近くあるのが常に女性であり、沖縄で最重要の葬礼である洗骨もまた女によって行なわれる。ということは死者を母の胎に一応納めなけれぽ彼の世に新生できない、という考えがその裏にあるからであろう。本土においても西会津地方では、ゼンの綱(棺につけられた白布の綱)を曳くのは女である。」

肇興では、西会津地方と同じように、棺につけられた白布を女たちが曳く。


葬礼は、新たな誕生を擬いているとすれば、

「新生児の扱いにおいて注意されることはボロでくるまれるということである。」

肇興では、棺にたくさんのタオルがかけられている。


古代の葬列の例として、「天若日子の葬儀」

「天若日子の葬儀には.五つの役目と、それを掌どる五種の鳥がみられる。

1.川雁ーキサリモチ、2.鷺ーハハキモチ、3.翡翠ー御食人(みけびと)、4.雀ー碓女、5.雉ー泣女」

吉野裕子氏は、「キサリモチ」について考察して、「女陰の象徴としての、キサ貝ではないか」としているが、

肇興での葬列を見ていて、「キサリ」というのは、「離さり・朽さり・崩り・気去り」、葬列で一番にくるものとしては、「気が去った遺体」と思われ、「キサリモチ」というのは、棺を担ぐ隊列が「川雁」が隊列を組んで飛ぶ様のように見えて、棺を担ぐ役目ではないかと思った。



「ハハキモチ」については、「ハハキ」は箒・蛇(はは)木で「蛇・男根の象徴」とされていて、「ハハキ」と同様のものに「オハケ」という美保関の美保神社の青柴垣神事などで立てられるもので、その代表的なシルエットは「長いもの(竹竿)の先に何かヒラヒラ又はフサフサした一かたまりのものがついている」ものである。

肇興では、葬列の棺を引く女たちの前方に、先端にヒラヒラしたものを付けた竹竿を持った少年が歩き、これが「ハハキモチ」だな、と思った。



埋葬される棺の方向にはこだわりがあるようで、紐を張って方向を調整していた。
ちなみにその方向は「北東」であったが、お墓によって向きは異なるので、何を基準にして方向を決めているのかは不明。


埋葬が終わって、正式なお墓は何日か、何週か後に造られるようだ、

埋葬された前面にこれも「ハハキ」だろうか、ススキを巻いた棒と木の棒が置かれていた。

 

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