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12 伊敷索城跡とその周辺
伊敷索城跡(ちなはじょうあと)は、久米島博物館の目の前にある。

「久米島文化スポットマップ1」によると、

県指定史跡。

「伊敷索城跡は、白瀬川(しらせがわ)下流の断崖上にあって、珊瑚石灰岩の野積みの石垣で囲われた三山分立時代(南山・中山・北山)に築かれたと言われるグスクです。
 平地部分に接する正面の石垣の高さは平均2m、城壁は北東から南西へ直線的に積まれているのが特徴です。城は大きく一の郭と二の郭に分けられ、高さ1mの石垣で仕切られています。一の郭は城内東側にあり、グスク全体の四分の一の面積を占めている。西側の二の郭に開いている城門は、両側の石積みが雑石の野積みとなっているところから木造の門であったことがうかがえます。一の郭跡に城の守り神としてイベが祭られているようですが、所在は不明です。伊敷索按司は後に子供たちを上江城、具志川、登武那覇の各城に配置して大勢力を誇ったと伝えられています。」

 

城跡から西の海と白瀬川河口を臨む。


伊敷索城跡の内陸の方に「石塘根(いしどーにー)」という拝所がある。

「久米島文化スポットマップ2」によると、

町指定史跡。

「石塘根には次の伝承があります。昔、久米島である年に、長い旱魃が続き、人々が飲み水にも困っているとき、嘉手苅之比屋の飼い牛が縄を切って逃げ出したので、比屋はその後をつけてみると、牛は林の中にある石の塘根から清水を飲んでいました。
 そこで比屋は、『こんな日照りの際にしかも石の塘根から清水がわくとは不思議なことである。ここはきっと神霊のまします所に違いない』と思い、セナイツウシという根神に請うて雨乞いの祈願をさせたところ、たちまち大雨が降り、人々は旱魃の苦しみから救われました。それ以来この地を拝所として崇敬し、雨乞いの祈願所となりました。
 石塘根は現在も水をたたえており、上記の伝承を伴う貴重な遺跡です。」


その石は小さな森の中にあり、正面からは変哲もない石だなあ、と思いながら中に入っていき後ろにまわると水をたたえた窪みがあり、拝所となっていた。

 

伊敷索城跡の少し西の海岸に久米島フェリー乗り場のある兼城港があり、その右手の島に「知仁御嶽(ちーみうたき)⦅ガラサー山⦆」がある。

「久米島文化スポットマップ5」によると、

町指定史跡。

「兼城港の向かいの小島で、以前は日暮れになるとカラスの群れのネグラになったことから、ガラサー山と呼ばれています。
 島全体が御嶽で神名を『ソク森大ツカサ、スデツカサガナシ』と称え、具志川間切例帳によれば、毎年2月と8月に諸作物の為のタカベ、9月にミヤ種子のタカベという神事が行われ、御いべの前に線香、花米、神酒を供えて諸作物の豊作祈願が行われました。
 また、この知仁御嶽は尚温王時代(1795~1802)に起きた『官生騒動』の首謀者松永親雲上(金文和)が久米島に流され、彼が流刑中に書いたといわれる『三鳥問答』の舞台にもなっています。

三鳥問答:別名三鳥論とも言われているもので、ガラサー山に集まった烏・隼・鷺を擬人化して久米島の疲労困憊の状況、改善策について意見を述べたものです。当時の王府の失政を風刺しているとも言われています。」


島の前方に屹立する岩は、正に男根のようで具志川跡近くのミーフガーの女陰と対をなしているんだろうと思う。


兼城港のすぐ近くに「兼城御嶽と植物群落」がある。

「久米島 具志川村史」によると、祀られている神名は、

二神で、「クロマンノイベ」と「カネマンノイベ」。「イベ」というのが「神」という意味であるらしい。

御嶽は多様な植物群落の中にある。

 

兼城御嶽の祭壇の中央には、「帰元各霊位」とある。

「帰元」とは、ネット検索によると

「仏語。生死の迷界を脱して、真理の本元としての涅槃(ねはん)の世界におもむくこと。帰真、帰寂、帰化、帰本とも。転じて、死ぬこと。」

ということで、亡くなった人たち、祖先を祀っているようだ。


中央の祭壇の左側には「石」が、右側には「壺」が祀られている。

越の末裔の中国の少数民族侗族も石を祀り、壺が拝所などのシンボルになっている。

 

森の中にも拝所があり、本来はここが御嶽でここに社の中に祀られている「石」があったんだろうと思う。


兼城港のとなりの鳥島港に面した小高いところにも拝所があった。


ここも祠の中には石が祀られていて、外にも石が3つ固定されていて、これは御嶽の象徴の「三つ石」だろうと思う。

 

鳥島漁港の内陸側へ上ったところに「小港松原墓(こみなとまつばらばか)」がある。

「久米島文化スポットマップ6」によると、

町指定有形文化財建造物。

「西銘集落の東方、小高い森の中に所在する字西銘仲村家(屋号山根(やまんにー))の小港松原墓は、同家5世昌敷が建造した墓です。墓碑によれば1716年(尚敬王代)の冬に中国への進貢使節の一人であった蔡温(末吉親雲上(ぺーちん)にこの墓地の風水(ふんし)を見てもらい、翌年11月に起工し、その次の年の1月に完成したと記録されています。
 墓型は亀甲墓であるが、マユの下に垂木(たるき)がついていることや、内部が立派なマチ(アーチ)であることなど久米島の中でも進んだ技術で建造されているばかりでなく、墓碑による記録があることから、歴史的価値も高い墓です。」

お墓の正面には「ひんぷん」の石積みがある。


お墓の天井の「亀甲」。


鳥島の集落のはずれに清水小学校があり、その目の前の海に「二重ノッチ」がある。

「久米島文化スポットマップ8」によると、

「干潮時に清水小学校前の礁原にある大きな岩(石灰岩)を見てみましょう。おおきなくびれ(ノッチ)が二つあるのに気が付きます。海水により削られてできるノッチは平均海水面に接するところが最も影響を受けるので、そのへこみ部分が海水面の高さを表します。低いところにあるノッチは現在の海水面で、これより約1.8m上部のノッチは約4200年前の縄文時代にできたことが分かっています。縄文時代は世界的に海水面が上昇していたとされ(縄文海進)、久米島も波打ち際が現在よりも島内に入り込んでいました。空港周辺からミーフガーにかけてのイリビシや東へ伸びる沖合のリーフなども、その頃にサンゴ礁として形成されたものと考えられています。」



現在、温暖化で海面上昇が問題になっているけど、4000年前は2m近く海面が高かったというので、温暖化も自然の循環なのかなあ、とも思う。

ここへ来て駐車スペースを探していて、たまたま駐車した所に「七嶽神社(ななうたきじんじゃ)」があった。

久米島町のHPによると、

「明治36年(1903)4月、徳之島に近い硫黄鳥島の硫黄坑ば爆発し、政府は軍艦を派遣して多方面から調査、協議を行った。その後、沖縄県からの勧めにより久米島移住について話し合いを持たれ、住民の多くの賛成が得られたため、硫黄採掘要員を除き、久米島具志川間切大田村字仲泊(旧具志川村字仲泊、現久米島町)に明治36年12月、37年2月の2回に分けて移住を行った。
 硫黄鳥島には、七つの御嶽があって遠く祖先の代から作物の豊作、住民の無病息災、作業の安全を祈願していたので、移住に際し、この七つの御嶽の砂を取って壺に納め、それをご神体として移住地に移し、まとめて祈願所としたのが七嶽神社である。
 なお、境内には「鳥島移住記念之碑」が建てられ、移住に至るまでの経緯が記されている。」

覆い屋の中に石でできた小さな祠がある。

覆い屋には、多分「丸に違い杵」と思われるの神紋がついている。

Google、AIモードによると、

「この紋は、餅つきなどに使われる手杵を2本交差させた紋で、杵は五穀豊穣の象徴として用いられる。」


石の祠の中には、硫黄鳥島にあった七つの御嶽の砂が納められた七つの壺が祀られていて、外側には七つの湯飲み茶わんが並ぶ。

 
祠の横には枠の中に「石」が納められていて、これも硫黄鳥島にあった本来の御嶽に祀られていたものかなあ、と思った。


二重ノッチから内陸のサトウキビ畑の広がる高台に「痛恨の碑」がある。

碑は、サトウキビ畑の中に隠れていて、見つけるのに苦労した。

「久米島文化スポットマップ7」によると、

「久米島町字西銘にある慰霊碑で、清水小学校北側に位置します。
 沖縄在、在日朝鮮人久米島島民虐殺痛恨之碑建立実行委員会によって建立され、碑には『天皇の軍隊に虐殺された久米島住民久米島在朝鮮人 痛恨の碑』と刻まれています。
 沖縄戦終結後の6月以降に鹿山隊長ら日本軍によって虐殺された久米島島民、沖縄在・在日朝鮮人家族ら20名の犠牲者が祀られています。
 6月23日の慰霊の日などには戦跡めぐりが行われ、痛恨の碑と久米島町出身犠牲者が祀られている「慰霊之碑」と併せて、平和学習として利用されています。」


軍隊というのは、「国体」という天皇を頂点とした支配者たちを守るものであって、庶民は守ってくれないものだと思う。

 

兼城港の横の集落の公民館の広場に「浜川こはでさ節の歌碑」がある。

「久米島文化スポットマップ4」によれば、

「浜川:現在の兼城における古い集落で、兼城公民館辺りと言われています。」

「浜川こはでさ節」

浜川こはでさの 枝(ゆだ)もちの美(ちゅ)らさ 浜川みやらびの 身持(みむ)ちよ(ゆ)たさ

歌意:浜川のこはでさ(クファディサ)の枝振りの美しさは、浜川の娘たちの身や心の豊かさのようだ。

「こはでさ節」

こはでさの御月(うついち) 間(ま)ど間どど照(てぃ)ゆる よそ目(ゆすみ)まど計(はか)いて 忍(しぬ)でいもれ

歌意:こはでさの上のお月様は、葉と葉のわずかなすき間しか照らさない。人の目のすきまをみて忍んでいらっしゃい。(この歌は踊りくはでさの本歌といわれています。)

「赤さこはでさ節」

赤さこはでさや 美御殿(みうどぅん)とたんか 玉黄金里(たまくがにさとぅ)や わぬとたんか

歌意:赤い葉(紅葉)の美しいこはでさは、りっぱな御殿と向かい合っているが、愛する大事なお方は、私と差し向いである。(この歌は首里へ奉公に行った娘の想いを歌っています。)



伊敷索城の下を流れる白瀬川の河口近くの多分旧道であろう道の橋のたもとに「白瀬走川節の歌碑」があり、川を少し上った所にある白瀬川公園の中にも2ヵ所歌碑がある。

「久米島文化スポットマップ3」によると、

「白瀬走川(しらせはいかわ)節の歌碑1ー平成6年(1994)3月建立
 
『白瀬走川に 流れゆるさくら すくて思里(うみさと)に 貫(ぬ)ちゃいはきら』

この歌は、琉球古典音楽の『白瀬走川節』として、また、琉球舞踊『貫花』の歌の一節に歌われ、古くから親しまれている歌です。
 歌意は「白瀬川に流れる桜の花をすくい取って、糸に貫いて花輪にして、愛しい彼にかけてあげたい」ということです。
 白瀬川は宇江城岳にその源を発し、伊敷索城跡のふもとにそそぐ清流で、田畑を潤し木々を育て、昔から人々の生活に大きな恩恵をもたらしてきた川です。その清流に浮かび流れてゆく桜花を目の前にして、乙女は恋心をかき立てられて、恋する彼への熱い思いを歌にしたものです。
 この歌で言われている「さくら」は「つつじ」のことだという説もあります。」

「白瀬走川(しらせはいかわ)節の歌碑2ー平成11年(1999)3月建立」

 

「白瀬走川(しらせはいかわ)節の歌碑2ー平成11年(1999)3月建立」

『散り飛びゆる花や 糸に貫きとめて 里が面影や 肝にとめら』

里というのは男の恋人にいう言葉である。」


白瀬川公園は、マングローブ林と色々な蝶々に出合えた。

 
 

イシガケチョウ。

ウキペディアによれば

「イシガケチョウ(石崖蝶、石垣蝶、Cyrestis thyodamas)はチョウ目(鱗翅目)タテハチョウ科に分類されるチョウの一種。
 和名通りの石崖・石垣模様を持ち、ひらひらと紙切れが舞うように飛ぶ。クリやソバなどの花にも来るが、吸水のために濡れた地面に降りる姿がよく観察される。とまるときはほとんど常に翅を開く。 多化性で、成虫は越冬を終えた春から発生を繰り返し、秋遅くまで見られる。食樹はクワ科のイヌビワ・イチジク・オオイタビなど。卵は葉や芽に1つずつ産みつけられる。
 温暖化により北上している蝶のひとつでもあり、国内では年々分布域を広げている。確実に土着しているのは紀伊半島以南・四国・九州・南西諸島。渓谷沿いの照葉樹林や疎林に多く、平野部ではほとんどいない。」