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28 榕江萨玛節 萨玛節儀式
12月19日(旧暦11月7日、寅)の午前中、車江の萨玛祠で萨玛を祀る儀式があった。

萨玛というのは、「偉大なる祖母」という意味で、祖先神の女神のことで、母系社会のなごりを表しているそうだ。


儀式は10時ぐらいから始まった。

参加者は、茅(糯米の稲の茎かもしれない)を持って先導する数人のおじいさんをのぞいては既婚の女性に限られるそうだ。

参加する人たちは、門から境内へ入るときに「祖母茶」と呼ばれるお茶を飲み、「黄楊樹(ツゲの木)」の葉のついた小枝を髪に挿して参拝する。

そして祠の中で萨玛を祀り、黒傘に神さまを移して、神輿渡御のように車江の集落の北側半分を銅鑼を先頭にして一列に並んでぐるりとめぐる。

半開きの黒傘を頭にして一列に並んで歩く様は、まるで巨大な「蛇」のようだ。


村を一巡りして、萨玛祠と鼓楼の前の広場で輪になって、萨玛の賛歌である「耶歌」を歌いながらぐるぐると回る。

そして、何番も歌ってから、萨玛祠にもどり、萨玛の御神体の周りを長老のおばさま達(巫女だろうか)だけでまたぐるぐる回って「耶歌」を歌い、儀式は終わった。

 

「萨玛」については、野村伸一編「東アジアの女神信仰と女性生活」の第二章、鈴木正崇著「女神信仰の現代的変容ー--中国貴州省侗族の薩媽節をめぐってー--」に詳しく述べられている。、

「萨玛伝説」については、

「薩は英雄叙事詩のガサスィ(嘎薩歳、薩歳の歌)によれば、昔、侗族の女性首領の杏妮(シンニイ。侗語で仙女の意味)が、過酷な統治に対して反乱を起こし、居住していた村や故郷を守ろうとして兵を率いて戦ったが、力及ばず敗走し、最後はロンタンエイ(弄塘概)という山の崖から身を投げて亡くなった。死後に人々はその勇敢さをたたえ、尊称して女性の祖先たる祖母の意味のサ(sax 莎 薩)やサスィ(sax 莎歳、薩歳)と呼んで、村の中央に壇を築いて祀り自分たちの守護神としたという。」

「祖母茶」については、

「お茶は草茶で、侗語でサオ(saop)といって芳香があり、漢訳では「祖母茶」という。飲むと魔除けになるという特別のお茶である。茶葉は千年矮(柏の一種。長青樹、冬青樹)の葉からとるとされ、祠の庭に植えてある。昔、女性の祖先が戦さに出たときにこのお茶を飲んだことに因むという。祈願に訪れた人々は「祖母茶」を飲んで健康祈願をする。」

「祭壇」については、

「祭壇は石積みで、中央に白い石が円丘風に広がり、中央に竹を挿して、女性が身に着ける黒いスカートを巻きつけ、その上に黒い傘を掛け、白い切紙で覆い、頂には造花風の色鮮やかな飾り物をつけて、首飾りが掛けられる。女性の衣装の上に黒い傘をさしかけたものを薩として祀るのであり、ご神体があるわけではない。傘を侗語でサンサ(sanx sax 撒薩)、「祖母の傘」という。周囲には赤、緑、紫、橙、青の五色の布で包んだ十二本の木(木椿)を挿し、色付きの小さな傘が立てられている。女性英雄(将軍)に率いられて戦った十二人の部下の戦士を表すともいう。基盤の石積みは白石からなり、稲わらが一つ、草鞋(薩が戦いのときに履いたことに因む)が一つ、置かれている。白石は黎平の龍岩から取ってくるという(現在は少し手前の榕江から約100キロの地点で採取する)。石はもともとは先祖の移動拠点であった広西の悟州から持ってきたとされ、そこの土が白石について混ざっていると信じられている。・・・・・・・。祭壇の石積みの下には二十四のお椀と二十四枚の銀貨が埋められ、銀貨は昔のもので二両と四両があるという。女性が盛装時に身に着ける銀飾りや鍋釜(上に向ける)が埋められている説明する人もいた。祭壇の管理や祭りの準備(供物の用意、傘の準備、土を入れるなど)は女性の既婚者でタンサ((dens sax 登薩)と呼ばれる責任者(漢語で祖母之主)が主体となって行う。」

ただ、祭壇については、吉野裕子氏の「祭りの原理」のように解釈すれば、「円丘」「上向きのお椀」「白石」は、女性の象徴で、円丘の中央に挿さる竹」「半開きの傘」は男性の象徴で、この祭壇が「性交の擬き」を表し、生命の再生を願うものではないか、と私は想像する。


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