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見付天神裸祭 御大祭

2019年9月4日の浜垢離
に続いて、9月7日、見付天神裸祭の「御大祭」を見に行った。

18時ごろから「子ども連」の練りが始まるというので、15時過ぎに家を車で出て、16時ごろGoogleMapに導かれて見付天神の裏手の駐車場に到着。会場の拝殿前までは歩いて数分のところで何かと便利であった。

境内へ行くと、拝殿前左手の「氷室社」で祀りごとが行われていた。
 
とりあえず参拝。可愛い巫女さんの舞が奉納されている。
 
 
 見付天神は、正式には「矢奈比売(やなひめ)神社」で、磐田郡の式内社の一つ。

主祭神は、矢奈比売命。

拝殿の敷居にどの神様にお供えするのか、神饌が置かれていた。
 
 

境内を見て回った後、神社は小高い丘の上にあり、街道のほうへ降りて行った。

この祭りに参加するための条件の掲示があったが、「腰蓑」を着けるのが一番の特徴だ。

後述するが、腰蓑をしめた裸の男たちの姿は地霊を鎮めるために注連マワシをしめシコを踏む相撲の力士そのものであるとのこと。
 

中腹の赤鳥居の脇に、「しっぺい太郎」という山犬の像があり、この神社には、毎年八月十日の祭りの前夜になると人身御供を要求する怪物(年老いた狒々)がいて、それを「しっぺい太郎」という犬が退治してくれた、という伝説が伝わるそうだ。
 

街道では夜店の準備をしていて、夕食はそこで食べればいいと確認して、いったん車に戻り、キャンプ用ベッドをひろげて一休み。

17時半、境内へ戻ると、浜垢離でいろいろ教えてもらった若者がいて雑談していると、西浦田楽でお会いして以来の「エンジョイパパ」さんとも再会。三人で雑談をして、「子ども連」を待つ。


18時子ども連の一行が拝殿前へやってきた。

見付天神裸祭のHPを参考にして進めると、

「午後6時、各町の子供練りが町内回りを終えてから出発する。 先ず練りながら矢奈比賣神社へ行き、 拝殿前で練ってから神社を時計回りに一周した後、 練りながら総社へ行く。総社でも同様に参拝し各町へ帰る。」

私は、子ども連の練りをみてから街道へ降りて、カツオハンバーガー、ポテトフライ、ビールで夕食とする。

境内へ戻ると、祭りのDVDの放映があるとのことで、それを見行く。
冷房の効いた部屋での鑑賞で快適であった。

21時から街道で練りが始まるということで、また街道へ降りると、ちょうど「町内の練り」が始まるところだった。

「午後8時30分頃になると各会所では御神酒を参加者に振る舞い、 出発の準備に掛かる。 午後9時の煙火一発を合図に、 ダシ(万灯)を先頭に「オイショ、オイショ」の掛け声勇ましく、 提灯を持ちながら町内を練り回る。 各町は各梯団で決められた場所で定刻に合流をし、 より大きな練りの集団となって見付本通りを進む。」


そして21時、ドンと煙火一発、「道中の練り」が始まった。


「先ず、一番觸(いちばんふれ)(西区)は、本通りを加茂川を目指して西に進み、 加茂川橋の西側、西光寺前にて練りながら月松社(境松・中央町)の練りを待つ。 加茂川橋の上でこの2つの練りが合流し、総社に向かって進む。
同じ頃、二番觸(西中区)は、馬場町交差点で集団を組み、 加茂川橋を目指して西進する。 一番觸は総社の社殿を西側より回り、宿町、東坂町を通り三本松の御旅所へ向かう。 二番觸、東中区、三番觸(東区)もそれぞれ西進し、 加茂川橋で方向を変え、総社の社殿を回って三本松御旅所へと練り進む。
一番觸は、三本松御旅所でまた方向を変え、神社に向けて練り進み、 赤鳥居前の坂道で一番町の鈴組だけ後に別れる。 一番觸の集団は、これまで鈴の音を合図に進んできたが、此処から提灯だけとなり、 押し合い揉み合いながら掛け声勇ましく拝殿を目指して練り進む。 御札場前の六ツ石の所で集団を解き、練りの集団は拝殿へ向けて疾走して乗り込む。 午後十一時頃である。」



私は、初めのほうだけ見て、拝殿へ戻って、場所取りをして、雑談をしながら23時からの「鬼踊り」が始まるのを待つ。

23時、一番觸の堂入りから「鬼踊り」が始まる。


「一番觸の堂入りと共に拝殿内では鬼踊りが始まる。 数分後、一番町が、鈴の音高く練りながら六ツ石まで来ると、 練りの集団の前に、堂入り役の青年が白丁姿に新しい鈴を持ち、 二、三人の脇役の警固と共に、 拝殿前の参詣者が道を空けるのを待ち 拝殿前の一番町警固長の提灯の合図により鈴を細かく振り拝殿へ疾走し、 拝殿内の裸群の中へ練り込む。後ろの集団も鈴の音と共に振り続けてきた鈴を交換する。 これに続き拝殿内では提灯をかざし、鈴を鳴らし、掛け声も勇ましく、 汗と水に濡れた逞しい肉体が一塊となって踊り狂う。

十一時二十分頃、二番觸が二番町の堂入りの鈴と共に練り込み、 更に十分後には第三集団である東中区梯団が練り込み、またその十分後、 十一時四十分には三番觸が権現町の堂入りの鈴の音と共に乗り込み、 拝殿内には裸群が溢れ、掛け声勇ましく、提灯を振りかざし、鈴を鳴らして、 汗と水に濡れ踊り狂う。拝殿の中では、鈴は常に一つしか触れないことになっている。 二番觸が入れば一番觸は鈴を下ろし、三番觸が入ればまた同様である。 この裸像群の塊は第二、第三の新手が乗り込むにつれ、その塊は大きさを増し、 乱舞もその度を益々激しくしていく。

拝殿の鬼踊りは入れ替わり立ち替わり踊り続けられ、 肩車に乗る幾多の若者も現れ興奮の坩堝と化す。三番觸到着の後、 輿番が拝殿中央の練りの中を突き抜け、拝殿奥へ乗り込む。   やがて、〆切(元門車・富士見町)の一団が、各々榊の枝を手に拝殿へ練り込む頃、 鬼踊りは最高潮に達する。 」



私は、20分程拝殿すぐのところでビデオを撮っていたが、けっこうすし詰めで腕を上げて撮影するのにも疲れたので、「山神社祭」も見たかったので、拝殿を離れた。
 
拝殿の奥ではでは、0時ごろから「神輿渡御奉告祭」が行われるが、これは見ることができないだろうと、私は「山神社」の前で、「山上社祭」が始まるのを待つ。

「午前零時少し前、拝殿の奥では神輿渡御奉告祭が始まる。 既に午後九時からの御神霊遷御祭により神輿の前に奉っておいた神餞を撤し、 神輿の周りには半紙に包んだ十二個の石が置かれる。 この石は浜垢離の時に海水や浜砂と一緒に持ち帰った小石で、 石の上に十二支を書きそれぞれ十二支の方角に配置される。 特殊神餞を供え、祝詞奏上、玉串奉奠が終わると、八鈴の儀に移る。 神輿の天井から吊された八鈴から伸びている紐の先を、 七回、五回、三回と引いて振る。これを合図に、 御先供はそれぞれの道具を持ち、神官は触番に渡す榊を手に持ち、 共に西木戸から外へ抜け出て山神社へ向かう。 輿番はそのまま神輿の脇に待機する。 この間も、拝殿では鬼踊りが続けられている。 」

「拝殿に向かって右手前に山神社がある。 山神社前では庭火が焚かれ、神事が行われる。
宮司が祝詞を奏上する中、 御先供が「一番觸れ」と叫ぶと、 待機していた白丁に腰蓑姿の若者が神官より一番觸の紙片が付いた榊を受け取り、 鈴を振りながら「一番觸れー」と連呼しつつ、 西坂角に向かって参道を駆け下りる。
続いて同様に二番觸が榊を受け取った直後、見付全域の灯火が消される。 二番觸れはやはり「二番觸れー」を連呼しながら、 これは総社に向けて駆け下りる。祝詞が終わると三番觸が出発する。
触番の出発を終えた宮司は、 二本の松明に先導され拝殿前の石段まで神輿をお迎えする。 」



二番觸が榊を受け取った直後、見付全域の灯火が消され、スマホやカメラの液晶ファインダーもすべて消さなくてはならないので、そこで撮影は終了。

この後、「神輿渡御・おわたり」となるが暗闇の中で行われ、明かりをつけることはできないので、神輿が降りていくのを見送って、わたしも01時前に帰路についた。


「灯火が消え、暗闇の中、拝殿の鬼踊りは激しさを増し、再び最高潮に達する。 山神社祭の最中に定位置に付き準備をしていた輿番が、 おかいこみ(両手を下にさげて持つ)の状態から、 興奮の絶頂にある乱舞の中を押し分け、松明の明かりを先導に、 拝殿の奥から中央を割って外に出る。神輿の後に裸の群が続いて出る。
二本の松明に先導されて、猿田彦、先供、神官、神輿の順で参道を下る。 この松明も制札の辺りで消さる。裸の練りが勢い余って神輿に近付くのを防ぐため、 〆切は、榊の枝で地面を叩きながら裸の群を追い戻す。
坂を下りきった旧大鳥居の所で、輿長から「お肩」という声が掛かると、 輿番はこれまでの「おかいこみ」の態勢から、神輿を肩に担ぎ込む。 ここからは真っ暗闇の中を、「オッシ、オッシ」の掛け声と共に、 総社に向けて疾走する。
総社の角には、 西坂から”ふれながし”を終えて帰ってきた一番觸と、二番觸が、三番觸を待つ。 三番觸は、先供、神輿との距離を測りながら走ってくる。 そして三つの先触が合同して「オッシ、オッシ」の掛け声で総社に向けて疾駆する。 神輿は総社にはいるところで再び「おかいこみ」になり、拝殿に安置される。 この時に舞車(馬場町)は神輿に御神酒を献上する。オワタリの時の灯火は、 この舞車の提灯のみ許されている。
神輿が本殿に入ると、煙火の合図と共に一斉に灯火が灯される。 神輿の後を追って疾走してきた数百の裸の男たちは、 総社拝殿前で腰蓑納めの練りをして腰蓑を納め、各会所へと帰る、 また、神輿の安置を終えた輿番も鬨の声を上げ、輿長を先頭に縦列になって、 「オイショ、オイショ」の掛け声と共に各祭組の会所へと戻って行く。 」



翌8日も15時過ぎに家を出て、16時過ぎに同じ駐車場に着、神輿還御の出発する「総社」へ向かう。

まずは参拝。
 

還御は17時に始まる。


「大祭二日目、総社本殿祭、神輿前祭などの神事が営まれた後、神官、先供、稚児など、 御神幸に携わる人々が総社に集まる。 白丁姿の輿番が「オシ、オシ」と声を掛けながら縦列になって駆け込んでくると、 一同神輿を囲んで整列し、御神幸奉告祭が行われる。
午後5時、お立ちの煙火を合図に、還御の巡行は、総社を出て西へ順路を取る。 根元車(西坂町)の先導役二人の後に、猿田彦、大太鼓、大榊、御道具・・・神官、 神輿と続く。輿番は神輿の周囲に付き、鳳輦車を引く。 時折鈴を降りながら「マイロー、マイロー」という掛け声で進む。猿田彦は、 時々顔に面を押し当て、「オー」と発声し、続いて太鼓が二つ鳴らされる。道筋の家では、 還御の行列が近付くと通りへ出て、柏手を打って神輿を拝む。 西坂梅の木(御斯葉オロシで榊を立てる場所)で、 根元車(西坂町)から御神酒が献上される。この御神酒献上は、道中、 二ヶ所の御旅所を除き、 この西坂梅の木と河原入口(龍陣)そして愛宕下(真車)の三ヶ所で行われる。
還御の行列は西坂から加茂川通りを経て只来坂を上り、 境松・月松社のお迎えを受け、見付の西端(磐田市役所の近く)、天王御旅所に入る。 ここで天王御旅所祭が執り行われ、小休の後、進んで来た道を引き返す。
只来坂を下ると、加茂川通り西光寺前辺りを先頭に、 各町内提灯を掲げてこれを迎える。各町の者たちは神輿を拝むとその後に従いお供をする。 還御の行列は見付本通りを西坂町、馬場町、宿町と東に進み、途中、 愛宕下で東坂町・真車の献酒を経た後、愛宕神社脇・旧東海道の急な坂を上って、 見付の東端、富士見町(元門車)の三本松御旅所へと向かう。
三本松御旅所祭が終わった後、同坂を戻り下り、今度は、矢奈比売神社の参道を上る。 大鳥居跡を通過した辺りから、「チンヤサーモンヤサ」という掛け声に変わる。 参道の急な坂を上りきった所に赤鳥居があり、これを越えると、 神輿は鳳輦車から肩に担ぎかえられ、「オシ、オシ」の掛け声で拝殿前まで駈け進む。 拝殿の前には各町の者たちが提灯をかざしてこれを迎える。
拝殿前に到着した二百数十キロの神輿は、輿番によって何十回となく振り上げられ、 廻りを十重二十重に囲んだ各町の提灯もこれに合わせて上下する。 途中一度神輿は肩に担がれ、拝殿を一周する。そして二回目の胴上げが始まる。 この間、拝殿では太鼓が連打され、「ヨイショ、ヨイショ」の掛け声と共に、 力尽きるまで続けられる。やがて歓声の中、神輿は拝殿に納められ、輿番は勢い衰えず、 掛け声をかけ、会所へと駆け下りて行く。
拝殿ではこの後、御神霊移御の本殿祭が執行される。 」



台風15号の影響で16時半頃から雨が降り始め、還御の行列は本来なら20時ごろ矢奈比売神社へ帰りつくところを、短縮されて18時ごろ帰着した。


「神輿の胴上げは、「ヨイショ、ヨイショ」の掛け声と共に、 力尽きるまで続けられる。」、とのことだったが、雨のための短縮か、神輿の胴上げは数回で終わってしまい、ちょっと残念であった。



さて、主祭神の「矢奈比売命」について何か書かれてないかと、谷川健一編「日本の神々 10 東海」をみると下記のような記事をみつけた。

●「矢奈比売命」について

「・・・・たしかにこの祭における山の神の意義は大きい。山の神が神輿発御の鍵を握っているのである。実は当社には本殿後方にいま一つの山の神がある。祭神の「矢奈比売」は本来「山比売」ではなかったろうか。偉大なる天竜川の上流部には、水とさまざまな幸をもたらす山々が連なっており、遠江はその山を背にして立つ国である。山の神を女性とする信仰は山の神信仰のなかでも古層の信仰と見てよい。狩猟・採集時代に獣類と採集食物を豊かに与えてくれたのは母なる山の神であり、焼畑作物を与えてくれるものも山の神であった。水田農業においても山の神は、稲作にとって不可欠の水をもたらしてくれる神であった。それゆえに、山の神と田の神の転換、田の神の去来といった信仰が発生してきたのである。」

●一の鳥居前の「比佐麻里祭」の幟について

「ひさまり祭」は「ひそまり祭」の意である。祭りに先立って、まず身を浄めた裸の若者たちが氏子の生活圏である西の境から東の境までの間を練り歩くことは、地域の悪霊を反閇(へんぱい)によって踏み鎮めることを意味している。西の天王社東の三本松お旅所の間を練り鎮め、その範囲に神を迎えるのである。腰蓑をしめた裸の男たちの姿は地霊を鎮めるために注連マワシをしめシコを踏む相撲の力士そのものである。
厳しい「闇」の要求は、神を迎えるための物忌みにほかならない。本来は燈火禁制の間は音も慎まなければなかったはずである。すなわち、無言・無燈の物忌みのあと神を迎えたのであり、このいとなみこそが「ひそまり祭」である。」

●「しっぺい太郎」伝説について

「しっぺい太郎という犬は山犬系の犬である。我が国における山犬(狼)信仰が、焼畑作物を中心とした農作物を荒らす猪などの害獣を追放する山犬の現実的な威力を土壌として発生した・・・・・・・・・・・猿を退治する義犬伝説を形成した土壌には、害獣としての猿とそれを追放する山犬系義犬の図式が横たわっているのである。」

●「粟餅」を売っている店がいくつかあったが、それについては、

「矢奈比売神社の祭日には現在でも必ず粟餅が売られる。これはかつてこの日に必ず新粟の収穫祭として家々で粟餅を作っていたことを意味している。また、この日に必ず里芋の煮付けを作るということは、この祭が里芋の収穫祭でもあったことの証左である。・・・・この祭には畑作の、さらに遡源すれば焼畑の収穫祭の要素が潜在しているのである。」