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38 楢神社
在原神社からまた街中の街道沿いに北へ、楢神社(ならじんじゃ)へ向かう。

神社は街道沿いにあり、銅板造りの鳥居が立つ。


境内はそんなに広くなく、社殿は南向きに建つ。

 

由緒書とかは見当たらなかったが、ネット検索でみつけたHP(現在はなくなっている)によると、

「楢神社は、神護景雲元年(767)九月十三日に称徳帝の奏聞を遂げ、神託により宮山(上の宮)に創建された。その後、風雪に朽ち兵火に焼失して、現在地に遷座申しあげた。
 東大寺修二会に読誦する東大寺上院神明帳に和邇・楢・巻向とみえて和邇坐赤坂比古神社に続いてナラツヒコ(奈良豆比古)神社と読まれる神社や、また、延喜式神明帳の添上郡にみえる奈良豆比古神社に比定する説もあり、当社の伝聞する説話に符合するのであるが、鬼子母神を合祀して二柱御神霊を祭祀するようになり楢大明神『楢の宮さん』として畏敬され慕われてきた。昭和三十一年に現在の楢神社に改称した。」

祭神は、五十狭芹彦命(いさせりびこのみこと)または奈良豆比古と鬼子母神。

五十狭芹彦命は、崇神天皇のころ山陽道を主に制圧した四道将軍の一人の吉備津彦命(きびつひこのみこと)と同一人物とのこと。


拝殿の神紋は「丸に違い柏」のようだが、楢(ナラ)の葉っぱかもしれない。


「社殿は文久二年(1861)春日大社の第五十二次造営に際し払い下げを受け、氏子によって担ぎ帰り移築したものである。」 とのことで春日造り。


拝殿の前部の、銅の吊り灯篭や絵馬が印象的だ。


境内社は、大きいほうの恵比須神社(祭神 恵比須神) と、八幡神社(祭神 応神天皇)で、脇のご神木は割れ目があり、「『子授けの御神徳』は古くから有名である。」とのことで、豊穣の神様であるらしい。


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