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籠神社とその周辺を巡る
毎年4月24日に京都府宮津市字大垣430に鎮座する、元伊勢、「籠(この)神社」で「葵祭り(藤祭り)」が行われ、籠神社は、海部の系図が残っていることで有名で尾張氏の系図と重なる部分もあり、かねてから訪ねたいと思っていた。
4月23日早朝2時に起床して、高速道路の深夜割引を利用して籠神社へ向かった。

籠神社は、天橋立の丹後半島側の根本にあり、途中何度か休憩して、9時ごろ神社前に到着した。

神社前で道を間違えて、天橋立の根本近くの無料駐車場を見つけ、とりあえずそこに車を置いて神社へ歩いて向かった。

 

DeAGOSTINIの「日本の神社81 籠神社」によると、

「丹後国は『日本書紀』に崇神天皇が四道将軍を派遣して、特に当地を鎮撫させた記録などから、古来の要所として重視されていたことがわかる。その地に眠る墳墓・古墳の数は非常に多く、面積に対する遺構の密度は日本一とされている。その歴史の深さゆえか、籠神社にも多くの神話・伝説が受け継がれている。神社を守る2基の狛犬は、あまりの巧みさに作り手の魂を宿し、天橋立で暴れだしたといい、1基の脚には討伐された際の傷跡が今も残る。かつて参道であった天橋立は、天の伊射奈岐大神が地上の伊射奈美大神に会うために用いた梯子が倒れて生まれたという伝説もある。」


「狛犬」は神門の前にあり、これは鎌倉時代に作られたそうで、国の重要文化財に指定され、室町時代の画僧「雪舟」の描いた国宝「天橋立図」にその姿が描かれているそうだ。


神門をくぐった神域は撮影が禁止されている。

本殿は、伊勢神宮の本殿と同じ「唯一神明造」。

以下、神社で購入した「元伊勢籠神社御由緒略記」とDeAGOSTINIの「日本の神社81 籠神社」を参考にすると、

社殿の様式は、

「御社殿は伊勢神宮とほぼ同形式の唯一神明造であって、古来、30年毎に御造替の制となっている。御本宮本殿の勝男木は10本で、千木は内そぎになっていて、いろいろの古儀が昔のままに伝えられている。心御柱(しんのみはしら)があるが、之に就き社記に、『御柱一名天御量(みはかり)柱是則一氣起、天地之形、陰陽之源、万物之体也』と見えている。又、高欄上の五色(青、黄、赤、白、黒)の座玉(すえたま)は、神宮御正殿以外には拝せられねいもので、天孫直系の宮司家が祭祀する元伊勢宮として、又延喜式で山陰道八か国第一の官幣大社として、諸社に越える古来の御神得、御社格を象徴するものであり、日本神社建築史上も特に貴重なものとされている。尚、現在の本殿は弘化二年(1845)の造替で、京都府文化財指定建造物である。」

主神は、

「彦火明命(ひこほあかりのみこと)・天照御魂神・天照国照彦火明命・饒速日命、又極秘伝によれば、同命は山城の賀茂別雷神と同名同神であり、その御祖の大神(下鴨)も併せ祭られているとも伝えらる。尚、彦火火出見命は、養老年間以後境内の本宮の東側(向かって右)の別宮に祭られて、現今に及んでいる。彦火明命は、天孫として、天祖から息津鏡・辺津鏡を賜り、大和国及び河内・丹波(丹後)地方にお降りになって、これらの地方を開発せられた、丹波国造の祖神であらせられる。又別の古伝に依れば、十種神宝(とくさのかんたから)を将来された天照国照彦天火明櫛玉饒速日命であると云い、又彦火火出見命の御弟火明命と云い、更に又大汝(おおなむち)命の御子であるといい、一に丹波道主王(たにはのみちぬしのみこと)とも云う。」

息津鏡・辺津鏡は、

「昭和62年10月31日(旧暦9月9日・重陽の節句)に二千年の沈黙を破って突如発表されて世に衝撃を与えた之の二鏡は、元伊勢の祀職たる海部直(あたい)家の神殿の奥深くに無二の神宝として安置されて、当主から次の当主へと82代二千年に亘って厳重に伝世され来ったものである。日本最古の伝世鏡たる二鏡のうち、辺津鏡は前漢時代で、今から2070年位前のものである。又、息津鏡は後漢時代で今から1970年位前のものである。そしてこの神宝はその由緒が国宝海部氏勘注系図に記載されており、又当主の代替り毎に、口伝を以っても厳重に伝世されたものである。現存最古の国宝海部氏勘注系図並びに先年発表の二千年前の伝世鏡は、當宮の元伊勢たる史実を実証するものであろう。」

相殿は、

「豊受大神 天照大神。
 豊受大神は御饌津神(みけつかみ)とも申され、天照大神は、あまねく萬物を化育される天日の徳のように、天下蒼生を火(陽)の徳、高い徳を以ってお恵みになり、生命を活動させられ、皇室や日本民族の大祖神と仰がれ、御饌津神は天照大神が崇祭された大神である。

海神(わたつみのかみ)
 大元霊神の御徳を分掌せられて、航海の安全、漁業の満足等をお司どりになる。

天水分神(あめのみくまりのかみ)
 大元霊神の御徳を分掌せられて、水の徳を以って諸々の水利、水運、水道等をお司どりになる。奥宮相殿の罔象女(みづはのめ)命と共に神代以来最古の水神。」

境内摂社は、

「蛭子神社 
 之の社は恵美須神社とも云い、彦火火出見命と倭宿祢命を祭る。
 
天照皇大神社
 祭神は天照大神の和魂、或は荒魂とも伝えられる。當宮鎮座地は「大垣」であるが、神宮の御神領を書かれた神鳳抄の中に、大垣御厨(みくりや)が所見する。

眞名井稲荷神社
 祭神は、宇迦御魂、保食神(うけもちのかみ)、豊受比売。 古代から明治末まで、奥宮眞名井原に祭られていたのを、平成3年9月9日、80年ぶりに本社境内に再建。豊受大神直系の神社。」

境内末社は、

「春日大明神社
 春日四神を祭るが、古代には武甕槌(たけみかづち)社と呼ばれたと伝える。

猿田彦神社
 當宮に祭る猿田彦神は、古来大世多大明神と呼ばれる。之は、大佐田大明神の意であろう。」


この他に倭宿禰命の銅像があり、

「一名、珍彦(うづひこ)・椎根津彦・神知津彦(かんしりつひこ)。海部宮司家の四代目の祖。」


「海部家は、彦火明命を始祖とし、現82代当主に至るまで籠神社の宮司として奉仕してきた一族である。かつては丹後や若狭の海人族を統率した一族で、丹波国造として国の政治的な統治も担っていた。同家は応神天皇の御代に「海部直(あまべのあたえ)」の姓(かばね)を賜り、海産物の貢納、航海を司る地方豪族として、大和朝廷と密接な関係があったという。」


私は尾張名古屋の生まれで、熱田神宮に関連して海部氏でもある尾張氏にも興味がある。そして尾張氏の系図がここの海部直氏系図と重複する部分があり、興味深い。

  海部直氏系図 尾張氏系図
 始祖  天照国照彦火明命  天火明命
 児  天香語山命(あめのかごやまのみこと)  天香語山命
 孫  天村雲命(あめのむらくものみこと)  天村雲命
 三世孫  天忍人命(あめのおしとのみこと)一名、倭宿祢命(神武朝)  天忍人命
 四世孫  天登目命(あめのとめのみこと)  天戸目
 五世孫  建登米命(たけとめのみこと)  建斗米
 六世孫  建田勢命(たけたせのみこと)  建宇那比
 七世孫  建日潟命(たけひがたのみこと)(考照朝)  建諸隅
 八世孫  市大稲日命(いちおおいなびのみこと)  倭得玉彦
 九世孫  大那毘命(おおなびのみこと)  弟彦
 十世孫  小縫命(おぬいのみこと)(孝元朝)  淡夜別
 十一世孫  天御蔭命(あめのみかげのみこと)(開化朝)  乎止与
 十二世孫  宇介水彦命(うけみづひこのみこと)(崇神朝)  建稲種
 十三世孫  宇介津彦命(うけつひこのみこと)(垂仁朝)  尾綱根
 十四世孫  小登興命(おとよのみこと)(景行朝)  尾張弟彦
 十五世孫  建稲種命(たけいなだねのみこと)(成務朝)  金
 十六世孫  大倉岐命(おおくらきのみこと)(成務・仲哀朝)  坂合
 十七世孫  明国彦命(あけくにひこのみこと)(成務・仲哀朝・応神朝)  佐迷
 十八世孫  難波根子健振熊命(なにわねこたけふるくま)(仲哀朝・応神朝・仁徳朝)  栗原
 十九世孫  建振熊宿祢(たけふるくまのすくね)(応神朝・仁徳・允恭朝)  多々見
 二十世孫  海部直都比(とひ)  尾張大隅

海部直氏の十四世孫の小登興命と十五世孫の建稲種命は、尾張氏の熱田神宮にも祀られていて、「乎止与(小登興)」がいわゆる尾張の地の尾張氏の始祖ではないかと考えられているので、この重複をどう解釈していいのだろうか。

二十世孫の時代に、海部直都比と尾張大隅と共に「海部直」と「尾張宿祢」の姓を賜っているので、このあたりで明確に分家したのかもしれないなあ。。。


さて、籠神社の境内をひと廻りしてから、500mほどの北西に位置する奥宮の「眞名井神社」へ歩いて向かう。


ここも、社殿のある神域は写真撮影禁止になっている。


「神代と呼ばれる遥か昔から、丹後の国の眞名井原の地には豊受大神を祀る『匏宮(よさのみや)』があったとされる。崇神天皇6年(紀元前92年?)、それまで宮中で祀られていた皇祖神・天照大神は、皇女・豊鍬入姫命に託され、倭国笠縫邑に祀られることになった。その後崇神天皇39年(紀元前59年?)に匏宮に「吉佐宮」という宮号で、天照大神と豊受大神をともにお祀りしたのが、籠神社の奥宮・眞名井神社の始まりとされている。
 垂仁天皇の御代(紀元前29~70?)に天照大神が、雄略天皇の御代(457~479)に豊受大神が、それぞれ伊勢にお遷りになった。同社が伊勢神宮・外宮と内宮の『元伊勢』と呼ばれる由縁である。その後、ご本宮が吉佐宮の地から現在の籠神社の地に遷され、社名を籠宮(このみや)に改称。丹後国一宮として朝野の崇敬を集めている。」

「古称、匏宮・吉佐宮・与謝宮(よさのみや)・久志濵宮(くしはまのみや)、別称、豊受大神宮・比沼眞名井(ひぬのまない)・下宮本宮・元伊勢大元宮。

磐座首座(上宮)

豊受大神、亦名、天御中主神・国常立尊、その御顕現の神を倉稲魂(うかのみたま)命(稲荷大神)と申す。天御中主神は、宇宙根源の大元霊神であり、五穀農耕の祖神であり、開運厄除、衣食住守護、諸業繁栄を司どられ、水の徳顕著で生命を守られる。相殿に、罔象女命、彦火火出見尊、神代五代神を祭る。

磐座西座

天照大神、伊射奈岐大神、伊射奈美大神。 この磐座は日之小宮(ひのわかみや)と申し、主神は天照大神であらせられる。奈岐・奈美二神は大八州(おおやしま)(日本)の国生みの伝で有名であらせられる。当社奥宮境内眞名井原にお降りになられ、天橋立(天地通行の梯)をお造りなされた大神で、夫婦和合、家内安全、授子安産、延命長寿、縁結びの御神徳が著名であらせられる。

磐座奥座

鹽土老翁、宇迦御魂、、熊野大神、愛宕神を祀る。」


社殿は、神明造。

神社の入り口に「天の眞名井の水」が湧いている。

 

その脇に「波せき地蔵」が祀られている。

「大宝元年(701)に大地震が起きて大津波が押し寄せたが、この地蔵の前で津波が止まったという。」


ここからまた籠神社へ戻り、西の出口から天橋立を見下ろすことのできる笠松公園へ向かう。

公園へは、ケーブルカーかリフトで800円で上ることができ、ケーブルカーは30分おきだが、リフトはいつでも乗れるのでリフトで上ることにした。


天橋立の起源については、「元伊勢籠神社御由緒略記」によると、

「その起源については、上代は當宮の神地神境、神座とされていたもので、元初は、天神(あまつかみ)が天降られていて、国々島々を生み成されたとの傳であったが、一般に知られている古風土記には、男神伊射奈岐神が、久志備の浜の北辺にある眞名井原(女神伊射奈美神所在の奥宮)へ天から通われる時に造られた梯(これを天浮橋と云う)が、大神が地上で一夜寝ておられた間に倒れ伏して出来たのが天橋立であるという説が伝えられている。天橋立は、又、海橋立ともいって、別に海浮橋という古傳もあった。内海(阿蘇海)を神輿が、神幸(船渡御)されて、龍穴から竜宮城へお出ましになった古傳もあり、海神(わたつみ)の宮も橋立明神と称して現存し、龍灯の松の傳もある。
 伊射奈岐・伊射奈美両大神は、眞名井神社の裏側の磐座(磐境とも云う、社殿創始以前太古の祭場)西座にお祭りされてあり、この磐座を俗には、鶺鴒石(せきれいいし)或いは子種石と呼んで、天照大神御出生の地と伝えられ、日之小宮(ひのわかみや)と称されている。
 この伝説で窺われるように、我々の遠い祖先人は、天上の神と地上の人間界を結ぶ梯(はし)、天浮橋が倒れて出来たものが、天橋立であると素朴に感得したのであって、遠い上代から當神社の神域の内であり、又、近代に至っても境内であったが、後に参道ともなった。幕末文政13年の頃、元伊勢(當宮の事)を目指した善男善女のお蔭参りの列が、天橋立を埋め尽くして眞名井原の奥宮に詣でたという記録が残っている。」


科学的な天橋立のできた説明。


この日は、霧雨が降ったりやんだりで青空ではなかったが、それはそれで幽玄な趣で、天橋立の眺めは素晴らしいものだった。


股のぞき。


ここから北東の沖に、籠神社の海の奥宮の「冠島」と「沓島」が望めるようだが、この日は雲、霞がかかって見えなかった。

火明命と市杵島姫命が夫婦であったとはここで知った。


このあと神社巡りをしていて望むことのできた「冠島」と「沓島」。


せっかくだから天橋立も歩く。


道の両側に松が並ぶ。


イワシ好きの私には面白い話を仕入れることができた。


松の道が続くばかりで、向こうまで行って戻るのも大変、と「見返りの松」のあたりまで歩いてから、神社のある大垣の集落へ戻った。

海辺にお地蔵様が並んで祀られていた。

 

ぶらぶらあるいていると、「江之姫神社」に行き当たる。

籠神社のHPによると、

「江神社(えのじんじゃ)の「江」は入り江、また海の側を意味しており、当神社の氏子地域である江尻地区に鎮座しています。ご祭神は海神(わたつみのかみ)で、漁業をはじめ、海辺で生活する人々をお守りいただけるよう、当神社の神職によってお祭りが行われます。」


社の正面、蟇股の上に面白い彫り物の飾りがあった。

女神を守護しているのだろうか?

 

宮津市の 下水マンホールの蓋

 

籠神社の道路を挟んで斜め向かいにスーパーマーケットを見つけたのでおにぎりを仕入れて車にもどり、持参したほうじ茶で昼飯とした。

そして今回のもう一つの目的地、「浦嶋神社(宇良神社)」へ向かう。

途中、有名な「伊根の舟屋」にも寄ってみたが、道の駅へ行く道を間違え、伊根の街並みに入ってしまい、そこは外国人観光客で大賑わいで車を留める駐車場もいっぱいで、とりあえず、そこの観光は諦めて浦嶋神社へ向かう。

 

祭神の「浦嶋子」は実在したとのこと。

浦嶋伝説は、「常世の国」へいくという中国道教の神仙思想の影響を受けているそうで、童謡の浦島太郎のイメージとはちょっと違うようだ。

社殿が北極星を向いているとのことで、北極星は、航海をする海の民の重要な道しるべでもあり、ここも海人の神社だなあと思う。

本殿は、神明造。

 

拝殿には見事な彫刻が見られる。

 

拝殿の内には、海亀の甲羅が奉納されている。


境内の池にある小祠には、「石」が祀られている。

これも海部族の証か?

 

境内にある「力石」。

 

手水を溜める器は、五右衛門風呂か?


絵馬。


神社の前に浦島公園があり、立派な建物もあったが中はほとんど使用されてないようだった。


駐車場にあった案内板で「徐福」を祀る新井崎神社があることを知り、次に向かった。


神社は、眺めのいい新井崎に鎮座する。

 

社殿の蟇股には、立派な獅子の彫り物がある。


境内から、籠神社の海の奥宮「冠島」を望むことができる。

 

境内には二つの祠があるが、祭神は不明。


社殿の覆屋には、額絵が奉納されている。


鳥居をくぐって海岸に出て、左へ行くと社殿があり、右へ行くと徐福の上陸地の「ハコ岩」がある。


神社から歩いてすぐの、この村の新井漁港にも「舟屋」があるということで見入ったが、規模は小さい。

 

新井の村で出会った彩色されたお地蔵様。

 

棚田もあるということで見に行ったが規模は小さく草ぼうぼうに荒れ果てていた。

これにてまた籠神社の方へ戻ったが途中で伊根の舟屋の道の駅の横を通ったので寄った。

道の駅は高台にあって素晴らしい眺望であった。

 
 

後は、一風呂浴びようと、「近くの日帰り温泉」で検索、「クアハウス岩滝」がヒット。

70歳以上は、割引で330円。年をとるのも悪くない。

ゆったりしてから近くのスーパーマーケットで食料とお酒を仕入れようと思ったが、検索して見つけたスーパーは行き過ぎてしまい、結局、籠神社前のスーパーマーケットにたどり着く。

18時を過ぎていて、お惣菜コーナーは割引のシールが貼ってあって、これはもうけた。

 

パストラミ」とは何ぞや、と検索してみると、

「コンビーフ同様、現代のような冷蔵技術がない時代に、牛肉を塩漬けにしてから燻煙することによって保存性を高めるために作られた。食塩水に漬けた赤身肉を少し乾燥させ、燻煙した後、粗挽き胡椒、ニンニク、コリアンダー、パプリカ、オールスパイス、マスタードなどの香辛料をまぶすのが一般的である。」

とのこと。脂身の所もいい味で、寿司も結構いいネタでうまかった。

ただ、日本酒は純米酒がなくて、醸造アルコールの酒で、米の旨味がアルコールで邪魔されて残念であった。

食料も仕入れて、車中泊の場所を探そうと、「近くのトイレのある公園」で検索した場所へ行ったら、駐車場がなく、「近くのトイレと駐車場のある公園」で検索すると、「阿蘇シーサイドパーク」がヒット、この日はそこで車中泊とした。