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 ざるやぶり

2012年7月15日、前回見に行った「やぶねり」の白塚の北隣町、河芸町一色で行われた祭り「ざるやぶり」を見に行った。

14時ごろ家を出て、また近鉄に乗り白塚の一つ手前の「豊津上野駅」で降り、南へ10分ほど行くと祭りの行われる「八雲神社」に15時半ごろ到着した。

 

社殿は、南東向きに建つ。

祭神は、天穂日之命・天兒屋根命・建速須佐之男命。

 

「ざるやぶり」のパンフレットをもらえて、それによると神社の由来は、

「不詳。当社伝えによると戦国期に近江源氏の子孫三井次郎左衛門高次とその子高治なるものが当地に来り、当社を創建したというが、信ずべき根拠が乏しい。「牛頭天王社」という旧社名から、愛知県津島神社より勧請された疫病除け信仰社として成立した。

 明治維新後の神仏分離令に伴って、社名を八雲神社と改め、明治41年の神社合祀によって一色影重地区にあった3社および山神2社を合祀した。このうち、里中の2社と丸林の山神とは昭和9年に当社から分祀された。」

 

「ざるやぶり」についても説明があるが、「広報津」平成18年7月1日号によると、

 

「市内河芸町一色では、毎年7月15日の夜、市指定無形民俗文化財の「ざるやぶり」神事が行われる。

  この「ざるやぶり」神事の由来は、室町時代中ごろ、近江源氏の末えいといわれる三井氏一行が、転戦の末、一色海岸にたどり着いた時、空腹のあまり民家に入り、「よまし麦」を家人と奪い合った故事にちなんでいる。当時の祖先を追憶し、豊漁と安穏無事を祈願するという祭礼として行われるようになった。

  祭礼は、河芸町一色の八雲神社で、7月1520時の花火の合図とともに、ふんどし姿の若者たちが、「ワッショイ、ワッショイ、ワーイ」の掛け声で神社に駆け込み、数十人の裸の若者が練り合い、冷水をかけ、約20分ほど練り合い、第1回目の練りが終わる。

  小休止の後に、花火を合図に社前で、さらに拝殿の中でも、練り合いが行われ、第1回目よりさらに人数が増し、熱気を帯びた男たちに冷水をかぶせる。約30分ほどでいったん引き上げる。

  第3回目、21時ごろから最後のもみ合いが始まる。人の上に人がのしかかり、一段と熱気を増し、いよいよクライマックスに突入する。前日から白米を入れて用意した直径約60センチメートルの「たんばざる」を、若者たちがお互い引っ張り合い、奪い合う。その様はさながら騎馬戦のようで、ざるは破られ、ちぎられる。その迫力に圧倒されることだろう。

  年に一度のこの神事、一度見に行かれてはいかがだろう。

 

拝殿屋根には、「三つ巴紋」

本殿は、神明造り。

本殿には大きな鏡とこの日の主役の「ざる」が祀られている。

神社前には「八雲神社」の幡が立てられ、その先端には「榊」ではなく「御幣」が3本立てられている。

幡を結ぶロープには、「吊るし猿」という縫いぐるみが吊り下げられている。

 

「ざるやぶり神事」にはわれわれも飛び入りで参加しようと思えばできるそうで、「褌」を巻いてくれるそうだ。

荒っぽい祭りで、けんか禁止の張り紙も見られた。

神社前の道をまっすぐ行くと海岸に出て、松の木陰に腰をおろして30分ほどのんびりする。

16時半ごろ、海岸とは逆方向の国道23号沿いにネットで見つけたハンバーガー屋へ行き、腹ごしらえをして、18時前に神社に戻った。

境内にはカメラマンやテレビ局の取材も何社か来ていて、けっこうな賑わい。

 

19時半ごろ、まずは「Do魂鼓(どこんこ)」というグループの和太鼓演奏が3曲あった。

そして20時すぎて、「ざるやぶり」が始まった。

カメラマンはカメラをビニールで包んで防水に備えていたが、私はその備えがなく、バケツの水をかぶらないように若干遠めにいたが、だんだん前の方へいってしまい、わたしも何度も水をかぶって、右半身は頭から足までずぶぬれになってしまった。

 でもけっこう反射神経があったようで、ビデオカメラは水をよけることができてよかった。

 

祭りは22時すぎて一段落して、私は最終電車の22:22に間に合うように早足で駅へ向った。