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上知我麻神社
 
上知我麻神社は、その伝承地が、熱田神宮境内に祀られる摂社上知我麻神社南区本星崎町の星宮社境内に祀られる末社上知我麻神社の二か所に求める説がある。

私は、熱田神宮に参拝するときにはいつも上知我麻神社にも参拝していて、星宮社境内の上知我麻神社には、2009年12月27日に参拝した。

以下、式内社研究会編「式内社調査報告 8 東海道3」を主に参考にして進める。

【社名】

当社については、九條家本が「上知我麻神社(かみつちかまじんじゃ)」とし、少し時代が降るが「尾張国新名帳」には「千竃上明神」と別の社名で表記されていて、古代、愛知郡に「千竈(ちかま)郷」があり、社名は、その地名に因ったものと考えられている。

ただ、この千竈郷の場所自体が、「日本歴史地名体系 23 愛知県の地名」でも、上知我麻神社の所在に因って熱田区と星崎荘の南区という説を紹介して、結論は、詳細不明となっている。

「式内社調査報告」でも、いろいろな考察の結論として、これら2社は、式内社の遺存の社であると推定することは困難になり、今後、古代における「千竈郷」の所在地を明確にすることが重要であろう、としている。


<熱田神宮の摂社上知我麻神社>



【所在】


熱田神宮の境内摂社として、神宮の正面参道、第一鳥居の西側に鳥居を備えて東面して鎮座する。

もとは、第一鳥居の南300mの市場町にあったが、都市計画によって道路区域内に入るため、昭和24年12月に正参道入り口左側に移築し、さらに昭和40年12月には、現在地に新本殿が建てられた。

また、「長尾山東海寺記」に、当社は市場町に鎮座される以前には別の場所にあったが、焼失したため文殊堂に配祀したとも伝えられている、とのこと。

 


【由緒】

当社は下知我麻神社の紀大夫社に対して、「源大夫(げんだいふ)社」と称され、古くから熱田七社の一つとして摂社の内でも重い処遇をうけた。

創祀は不詳であるが、社伝によれば、下知我麻神社と並び、孝徳天皇の大化3年(647)に鎮座せられたといわれている。

中世には神仏習合の影響を受け、本地を文殊菩薩に配して説かれた。また、交通が盛んになるとともに、伝馬町西詰にあたる当社には、旅の安全を祈る参詣者が自然と増え、室町時代の謡曲「源大夫」では「東海道を日夜を守る源大夫の神」と見えている。これら中世の信仰は熱田の地主神とする信仰と並んで、近世へと受け継がれていった。


【祭神】

尾張国造の祖、建稲種命・宮簀媛命の父にあたる「乎止與命(おとよのみこと)」を祀る。

1997年刊の「新修名古屋市史 1」によると、尾張南部を本拠地としていた尾張氏は、かつて大和国葛城地方の豪族で、国造(くにのみやつこ)に任じられて尾張へ移住してきた、という本居宣長の説が定説となっていて、尾張氏が尾張の地と関わりをもつようになるのは、祖神の天火明命(あめのほあかりのみこと)から11世の乎止與から後で、乎止與は尾張大印岐(おおいなぎ)の娘、真敷刀俾(ましきとべ)を娶ったとあるが、新たに本居宣長の説を批判的に考える立場から尾張氏の尾張発祥説が台頭してきているそうだ。

素直に読めば、尾張には、尾張大印岐の尾張発祥の尾張氏の一族がいて、出身地は不明だが、乎止與はその娘を娶ることによって尾張氏に婿養子で入ったように思う。

尾張氏の系譜が、物部氏が編纂した「旧事紀」の「天孫本紀」に収められていて、11世の乎止與の父には色々な説があり混乱しているそうで、そのあたりも、乎止與がよそから入ってきたために尾張氏の系譜を無理に取り繕うために混乱しているように感じる。

そして「新修名古屋市史 1」では、この系譜は、乎止與からとそれ以前とは、前後二つの部分に分けられるという説を述べていて、本来、尾張氏の1世は国造となったという乎止與ではなかろうか。

また、乎止與命は、「熱田の地主神」として崇められ、在地の住民は租税を納め、大小の魚を貢納していたとのこと。

熱田の地主神とする説は、古く中世の記録にもあり、平家物語剣巻には、日本武尊が尾張国に下られた時、泊ったのが松姤(まつご)島の源大夫の家であったといい、また、「神道集」には、熱田大明神が天降られた時、お宿を貸したのが記大夫神であり、雑事を執り行ったのが、この源大夫であったと伝えている。

境内には末社の向かって右に大国主社、左に事代主社があり、江戸時代には、前者が大黒天社、後者が夷社、又は海神社と称された。

熱田の地主神ということで、国津神の大国主神と事代主神を左右に祀ってあり、もともとは上知我麻神社がこの地の尾張氏の氏神様だったのかなあ、とも思う。


【祭祀】
正月5日の初えびすに始まり、2月の節分祭、10月20日の熱田恵比須講社大祭、それに毎月5日に月次祭を行っている。

このうち正月の初えびすは、「初市」「五日えびす」とも称され、末社大国主社・事代主社の祭儀である。
この日の午前0時、新春吉兆の福運にあづかろうと参拝者は一番札を求めて賑わう。この時、特殊な恵比須・大黒像の絵像を授与し、また「掛鮒(かけふ)」といって、藁で縛った鮒2匹をお供えする風習がある。

【参拝記】
この上知我麻神社には、何度も参拝しているが、冒頭の写真は、2009年12月20日に、熱田神宮境内のの摂社・末社巡りをしたときのもの。

正面に、両袖に「翼廊」をつけた拝殿があり、「祝詞殿」・「渡廊」・「本殿」が直線状に並んでいる。

本殿は、総檜素木建銅板葺の流造風の形式。

江戸時代の社殿も東面して建っていたそうだ。

拝殿正面の蟇股中央の柱のようなところには、変わった形の「三つ巴紋」が彫り込まれている。

正面、破風屋根には、「五七の桐」の紋。

本殿屋根には紋章の名称はわからないが、「ユリ紋章」のような紋がついている。

2011年正月元旦に参拝したときは、5日の「初えびす」ではないが、社務所で恵比須・大黒のお札を購入した。

「あきないえびす」「はたらきえびす」があったが、私は、「生涯現役 ちからえびす」を購入。

この鯛を抱える腕だけの恵比須像には面くらった。


各社殿には、鯛を二匹あしらった正月飾りの熊手が掛けてあった。

 

お正月前後に上知我麻神社を訪れると、毎年の干支とともに恵比須さんが描かれたポスターが貼ってあって、それを見るのも楽しみの一つ。

 

<星宮社の末社上知我麻神社>

【所在】
名古屋市南区本星崎町宮西622番地に鎮座する「星宮社」の境内に祀られている。

名鉄名古屋本線の本星崎駅の北西約200mのところにあり、南に伸びる瑞穂丘陵の先端に位置していて、古代には東西ともに海水が入っていた岬にあたり、熱田神宮の岬とは海を隔てた南南東の岬の先端の位置になる。

一説によれば、当社は現在の笠寺小学校にあたる星崎城の地にあったが、この城が陥落してのち、現在地に移転したとも伝えられている。

この地は、古代、「作良郷」に比定される説があって、神社名の由来となっている「千竈郷」とは異なる地のようだ。

【由緒】

本宮の「星宮社」は、現在「国常立神(くにのとこたちのかみ)」・天之香々背男(あめのかがせお)命」の二柱を祀るが、古くは、天津甕星神(あまつみかほしのかみ;天之香々背男命)の一柱であった。

天津甕星神(天之香々背男命)は、ウィキペディアによれば、

「星の神で、全国の星神社や星宮神社の多くは天津甕星を祭神としている。日本神話においては星神は服従させるべき神、すなわち「まつろわぬ神」として描かれている。これについては、星神を信仰していた部族があり、それが大和王権になかなか服従しなかったことを表しているとする説がある。」

社伝によると、舒明天皇9年(637)8月に信託によって鎮座されたといわれている。

境内社は、正面右側に、加具土かぐつち)社・軻遇突智社(かぐつち)社・霊社、左側に、白山社・金毘羅社・天王社・神明社、少し離れて、英霊社がある。

上知我麻神社(向かって右側)は、下知我麻神社と並んで本殿の後ろの一段と高くなった場所にある。その祭神は、大己貴命・乎止與命の二柱を祀る。

【参拝記】

2009年12月27日に参拝した。

名鉄「本星崎」駅で降り、線路に沿ってちょっと北へ歩くと「中井用水緑道」という遊歩道があって、そこを進むと「星宮」があり、その本殿裏手の小高いところに上・下知我麻神社の小さな社が並んでいる。
 
 

上・下知我麻神社へ上る石段の脇に、二人が寄り添うような磐座が祀られている。


知我麻神社は、大己貴命も祀られていて、智恵の神様だそうで、受験生が合格祈願で奉納する絵馬が掛かっているが、大黒様の絵柄になっていて、熱田神宮にある上知我麻神社同様、国津神との縁があるようだ。


星宮へは、石橋を渡ってから、鳥居をくぐる。


石段を上って、社殿は南面して建つ。

拝殿に掛かる額には、「星崎宮」と書かれている。

このお宮は思ったよりも森が大きく、大楠が神木になっていた。


星宮界隈を散歩して見つけた素敵な飾り瓦。

素敵な土蔵の家もあった。